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「患難前携挙」が100%絶対あり得ない明確な聖書的根拠

まずここで、一般に「携挙」の根拠とされている関連聖句を引用しておきましょう。

《主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。  すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、  それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。》1テサロニケ4:15-17

《わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。  最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。》1コリント15:51,52

まず注目すべきは「ラッパ」です。この、特に「最後のラッパ」という表現です。「最後」と言うからには、複数あり、例えばわずか2つ程度では「最後」とは呼ばないでしょう。
ここからだけでは黙示録のラッパとの関係は特定出来ませんが、一つの点だけ取り上げておくことにしましょう。
「黙示」と訳される「アポカリプシス」ですが、「黙示録」と聞くとヨハネの専売特許のように思う方がほとんどだと思いますが、決してそんなことはありません。
たまたま、ヨハネが最後に記した書の初っ端に登場する単語が「アポカリプシス」だったので、書名として採用されたわけですが、聖書筆者は何らかのかたちで神からの「啓示(アポカリプシス)」を受けていたはずです。
実際パウロは自らはっきりとそう告げています。

《主が見せてくださった事と啓示(アポカリプシス)してくださった事について語りましょう。》2コリント12:1

※この点の詳細は次の記事を御覧ください。

ですから、パウロの書簡を「パウロによる黙示録」と呼んでも一向に差し支えないということです。
さてそれはともかく、本題に戻りますが、「ラッパ」に関する啓示はパウロも受けていたと考えられるということです。
つまりパウロは7つのラッパを承知のうえで「最後のラッパ」のタイミングで、その時生きているクリスチャンが一瞬にして変えられて挙げられるということを記述したのでしょう。

ラッパは「災い」の開始の合図であり、それ以前つまり患難の前に鳴らされることはありません。「最後のラッパ」であればなおさら、患難の殆どを経験した後の話です。

では次に、大患難の開始とキリスト再臨のタイミングに関する時系列を確認しておくことにしましょう。

大患難は、サタンと悪霊たちが、天から放逐されて、地に下った時から始まる「終末期」の後半の3時半に生じます。

《地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。》黙示録12:12

そして、キリストの再臨は、その大患難の後に生じます。

《その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。》マタイ24:29:30

再臨の目的は主に2つあります。収穫と裁きです。

《「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」・・収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』》マタイ13:24-30

クリスチャンを自称する人々は「麦」と「毒麦」に分けられます。
麦だけが収穫、つまり天国に召されることになります。

ところで、復活にしても、一瞬のうちに変えられて挙げられるにしても、クリスチャンは「天」に召されるわけではありません。「天国」に招かれているのです。

《あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。》コロサイ3:24

天国に召すその目的は何でしょうか。余生をのんびりと安楽に暮らすためではありません。

《彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。・・彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。黙示録 20:4,6

召された彼らは一体誰を統治するのでしょうか。

「天の御国」を受け継ぎ、そこで千年間王として統治するということですから、すなわち「天国、天の御国」とは「千年王国」のことだということが解ります。
「千年王国」と聞くと地上に設立される王国だという固定観念を持つ方が少なくないかもしれませんが「千年王国」とは、その支配者側がキリストとその花嫁による統治であり、それと、被支配の側が、「サタンによって惑わないように保護された「諸国民」の双方から成り立っているものです。

《悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。》黙示録20:2

それで終末期の「収穫」については麦の収穫のことしか語られませんが、ここでは、もう一つの別の収穫に焦点を当ててみたいと思います。

二分されるのは「麦」と「毒麦」つまり天的募集申込み者だけでなく、その他一般人つまりノンクリスチャンも同様に判定裁断が下され二分されます。

《人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け・・王は右側にいる人たちに言う。・・お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。》マタイ25:31-34

「羊」と認定された人々は「千年王国」の統治される側として、この「千年王国」の地上の生活へと誘われます。

それで召されたクリスチャンは「千年の間」統治する。つまりその千年のカウントダウンは、サタンが拘束されてからスタートするのですから、それより前に天国に入ることなど決してありません。

実際キリストは、いつ千年王国、つまり天国が存在するようになるかについて、明確に次のように述べておられます。

《わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。》ヨハネ14:2,3

「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

お気づきになりましたか?この最後の文節は、携挙の根拠とされている1テサロニケ4:17の「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」と同じフレーズです。

イエスは西暦1世紀に昇天されて「あなたがたのために場所」つまり天国を用意しにいかれました。

そして、そのための場所が用意できたならば「戻ってくる」つまり再臨されることを約束されました。

再臨のタイミングまで「天国」は用意中であり、完成してはいない。というか、別に建設日数がかかるようなものでもないでょうから、「臨在」の際に初めて存在するようになるということでしょう。

実際天国の有効期間は千年間で、その開始はハルマゲドン後です。

そういうわけで、大患難の始まる寸前のタイミングと言うのは、未だ再臨もなされておらず、したがって天国もその時点で存在してはいないので、どこにも行き先がない状態で、携挙などあろうはずがないのです。

聖書的根拠もない、根も葉もない、勝手な解釈で偽りの安心を与える現代のハナンヤに警戒すべきです。

《預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った。「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。 それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ。》エレミヤ28:15,16

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