イエス・キリストが神であってはならない聖書的根拠
※(この記事は《「インマヌエル」の預言に関する真実》と題する記事に追記した部分だけを取り出して一部アレンジして単独に一つの記事にしたものです。)
■ イエス・キリストは「人間であり、同時に神でもあった」というのは本当ですか?
イエス・キリストが神であるなどとは聖書中のどこにも記されておりません。
※(開口一番のこの言葉に異論を持たれる方もおられるかも知れませんので、巻末にこう断言している証拠を載せておくことにします)
ヨハネが「神」であるとしたのは、天での「言葉(ロゴス) 」のことであり、独り子 御子 という表記の場合 それは「ロゴス」のことで、肉体となって地に来られたイエス・キリストは「人の子」と呼ばれます。
(「神の子」という表現はイエスに限らず、天使やクリスチャンたちに対しても多くの箇所でそう呼ばれています)
ヨハネは端的にイエスは「肉」であると記しています。
《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。》ヨハネ1:14
神のまま肉を纏って来られたわけではありません。「肉となった」のです。
人間であるマリアから産まれ、イエスと名付けられた子は人間であり、神ではありません。
なぜなら、その絶対的、聖書的最大の理由は、もし神であったなら人間アダムの罪に対応する(釣り合う)贖いとならないからです。
《彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。 20ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。 21あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。》申命記1:-19-21
これは態復讐法と呼ばれる法律で、償いには「同等のものが不可欠」という冷厳とした掟で、行き過ぎた報復の連鎖を断ち切るための神の知恵の現れです。
贖う必要があったのは神の命ではなく人間の命です。
もしイエスが神でもあったのなら、その代価は逆に過剰という不当な償いになってしまうでしょう。それは神の定められた贖いの法則に反することになります。
ですから、アダムの罪を贖うという極めて重要なこの業が成し遂げられるためには、イエスは絶対に神であってはならないのです。
だからこそわざわざ神は罪を負った人間の世に、完全な罪のない人間を備える必要があったのです。
《実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。》1コリント15:20-22,45
キリストの復活は、死んだ人間の初穂でした。つまり復活した時点でさえ、キリストは神ではなく「人間」でした。
「初穂」ということは、後にそれに続く「人間」が居るということであり、「神」が「神」として復活するなど言うことではありません。
「死」つまり「罪」は一人の「人」によって来た故に「死者の復活も一人の人によって来る」ということです。決して「一人の神」によって来るのではありません。
最初の人間(固有名詞として呼ばれる)「アダム」はヘブライ語の普通名詞としては「人」という意味です。そしてそれは同時に「土」という意味の単語です。
ですからイエスは「最後の人」であり「最後の土」とも言い得るということです。
「最後のアダム」とは、真の(永遠の)命を伝え損なった最初のアダムに代わって、人類に永遠の命を与えることのできる「父親」であるということです。キリストは、遅れ馳せながら、改めて人類の先祖となられたということにほかなりません。
「肉体となって」という描写の意味が分かりますか。「人間として」ということです。これは私が言っているのではありません。
イエスご自身がご自分のことを「人間の子(son of man)」と表現していることを代弁しているだけです。
これを否定するもの、つまり、これに他の要素を付け加えたり、このシンプルな概念を正しく表そうとしないことはすなわち、「別の教え」を広めようとするものとなることは必死で、ヨハネに言わせれば「反キリスト」です。
《イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。》2ヨハネ1:7
イエスはマリアから人として産まれ、人として亡くなられました。イエスはあるいはキリスト(クリストス)油注がれたものはどこまで言っても100%人間です。ですから人間の命をあがなうことができました。
つまり人間として命を贖いとして神に捧げ、その後神により蘇らせれてふたたび命を得、昇天した後に「ロゴス」に戻られました。
最後に興味深い比較をご紹介しましょう。
旧約聖書中には「神」を表す語が、時に複数形(エローヒーム)であったり、単数形(エル、エロア)であったりします。
この違いは明確には分かりませんが、単なる普通名詞として扱われる際には単数で、人間との関わりというか、崇拝の対象としての称号という意味で語られる場合は複数形になるようです。
《わたしは神(ヘ語:エル(単数形)、ほかにはいない。わたしは神(ヘ語:エローヒーム(複数形)であり、わたしのような者はいない》イザヤ46:9
イザヤ9:5の《ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。》というイエス・キリスト関する預言の中でその称号の一つに挙げられている「力ある神」という表現の「神」も(ヘ語:エル(単数形)となっています。決してエローヒーム(複数形)ではありません。
この2つを併せて考えると次のような一つの結論にたどり着きます。
ヤハウェは一人の神であり、イエスとして人間として生まれることになったロゴスもまた一人の神である。しかし、ヤハウェはみ子を生み出し共に創造を行う神としてはエローヒームであり、そのような者はいない。ということです。
ヤハウェはロゴスを介してすべてを創造されました。(コロサイ 1:15‐17)言い換えればその創造のエネルギーはみ父から出て、み子を「通して」放出されということです。つまりロゴスはみ父と共なる協働創造者であるゆえに、人間からすれば間違いなく神ではありますが、ヤハウェのような者ではなく、原因者でもないということです。
ヤハウェ(YHWH)のような者は他には存在しないというのは明らかなことで、そういう意味では、神は唯一(お一人)です。
しかし、天における「言葉(ロゴス)」なる方が公にされた時点で、固定概念を捨てて、「神」という言葉の概念を改める必要があるのです。
《キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり・・》ヘブライ5:7-9
キリストは「従順」を学び、完全な者となった、つまりそれ以前は「完全な者」ではなかったということです。
父なる神には変化はないと記されています
《まことに、主であるわたしは変わることがない。》マラキ3:6
《父には、変化とか回転の影とかいうものはない。》ヤコブ1:17
しかしみ子には、新たなミッションをクリアすることによる、成長があるのです。
イエスは産まれたときから人間でした。しかし、もし「人間であり、神でもあった。」と主張するするのであればそれはつまり、産まれたときからイエスであり、ロゴスでもあったということです。
そして、およそ30歳のころバプテスマを受けられて聖霊が降った時、ロゴスとしても油注がれてメシアとなったということです。言い換えれば、その時「イエス・キリスト」なり、同時に「ロゴス・キリスト」ともなったということになります。ここまでで、この理解で間違いありませんか。 どこも論理として間違っていませんよね。
「油注ぎ」の意味するところは幾つかありますが、基本的に「聖別する、権能を授ける」ということです。
分かりやすく言うと「油注がれた者は、聖なる者とされ、聖なる職務が与えられ、その聖なる立場ゆえに神から特別な権威を与えらる。」ということです。
ペンテコステの時、弟子たちは聖霊による油注ぎを受けることにより、奇跡的な賜物を受け大胆に行動できました。
さてイエスは人間でしたから神からの聖霊の油注ぎで、メシアとして、奇跡的な業を含む宣教活動を開始されました。
しかし、「同時に神でもあった」のなら、つまり同時に「ロゴス」でもあったのなら、何故「聖別」される必要があったのでしょうか。ロゴスに、どんなさらなる権能を付与する必要があったのでしょうか。そもそも「神」なのに。
「人間であり、神でもあった。」という奇妙な神学は、「油注ぎ」のゆえに、数々の疑問や矛盾点を生み出すことになります。
「三位一体」は長い年月をかけて、何度も会議を重ねて正式な「キリスト教」の根幹をなす教義として定着したわけですが、「三位一体」を考えだした人々は、「神」を聖別し、「神」に権能を付与することになるということに何の疑問も感じなかったようですから、甚だしい無知であったか、或いは全く論理性に欠けた思考しかできない人々であったか、もしくはその両方だったかもしれないと言わねばならないでしょう。
イエスが「油注ぎ」を受けられたということだけで、イエスは神ではなく「人間」であったという証明になっているのです。
※イエスが神であるとは聖書のどこにも書かれていない。件について
新共同訳のテトス2:13にはこう表現されている箇所があります。
《・・偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト・・》テトス2:13
これを読めば、イエス・キリストは神であると、ちゃんと聖書に書いてある、と誰でも思うかもしれません。しかしこれは誤訳、或いは意図的な誤訳であるかもしれません。
次の原語の構文をご覧ください。
塚本訳は、比較的原文に忠実に訳しているといえるでしょう。
《幸福な希望と、大なる神及びわれらの救い主キリスト・イエスの栄光の顕現・・》
幾つかの英語訳とその翻訳もご紹介しておきましょう。
American Standard Version
《looking for the blessed hope and appearing of the glory of the great God and our Saviour Jesus Christ;
祝福された希望と偉大な神と私たちの救い主イエス・キリストの栄光の出現を待ち望んでいます。》
Douay-Rheims Bible
《Looking for the blessed hope and coming of the glory of the great God and our Savior Jesus Christ,
偉大なる神と私たちの救い主イエス・キリストの祝福された希望と栄光の到来を求めています。》
Webster's Bible Translation
《Looking for that blessed hope, and the glorious appearing of the great God, and our Savior Jesus Christ;
その祝福された希望と、偉大な神と私たちの救い主イエス・キリストの栄光の出現を求めています。》
別のケース
《私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって》2ペテロ1:2 新改訳
この聖句も上記のとテトス2章と全く同様ですが、この訳を読む限り「神であり救い主であるキリスト」つまりイエスは神であると記されていると思わされる人がほとんどでしょう。
別の訳で見てみましょう。
《わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた 人たちへ。・・》2ペテロ1:2 新共同訳
ここから分かるのは、先のテトスの場合と同じで「神」と「キリスト」に言及している文章を、キリストだけにひとまとめにしてしまっているという間違いを犯しているということです。
しかし前節を見ますとこうなっています。
《神とわたしたちの主イエスを知ることによって・・》2ペテロ1:1
文脈は神なるキリストではなく「神」と「キリスト」の二者を扱っているのです。
この聖句についても次のギリシャ語の構文をご覧ください。
もう一つ別のケース
ヨハネ20:28の記述で トマスがイエスに向かって「私の主。私の神。」と言ったのは確かです。否定していないから、発言を認めている。つまり聖書にはイエスが神であると書いてある。という論議はいかがなものでしょうか。
トマスの言の意味は「あなたは私にとって神のような方!」ということにほかなりません。
一個人が、ただ一度述べたことにどれほどの汎用性、絶対性があるでしょうか。他の誰もそんなことは一言も言っていないことをです。
例えば、誰か著名な人が、ステージ上から「お客様は神様です」と言い放ったら、「その日来場した観客は全員神だった」と誰かが真顔で話すとしたら、あなたはどう対処しますか。
ヨハネ20:28と同じ構文は次の聖句にも見られます。
《主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。》ローマ16:13
字義的には「彼女はわたしの母です」となっていますが、ここでは、「わたしにとって」と訳すことによりこれが比喩的表現であることを示しています。
というわけで、キリストが神であるなどとは聖書のどこにも記されておりません。
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