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「インマヌエル」の預言に関する真実

※この記事の趣旨:

■■「インマヌエル」についてネットであれこれ検索して調査してみましたが、どれも皆、キリストの誕生時の出来事に終始していて、西暦一世紀に成就した(過去の出来事)として片付けられているようです。

これでは、「インマヌエル」のいわばスタートの時点しか考慮しておらず本来の「インマヌエル」に関する神のご計画を見過ごしていると思われる点。

そして付随的に、今日でも、キリストの神性を認めない教派があり、未だ論争が続いている点においても、この「インマヌエル」の正しい理解はその強力な証拠となることを取り上げています。

同時にこの論議は「イエスは人であり、同時に神でもあった」という主張に終止符を打つことになるということも予めお理りしておきたいとおもいます。■■

恐らく多くの人が聞き覚えのあると思える、有名な「インマヌエル」ですが、実際は謎が多く、難 解な預言のひとつとされています。この語はイザヤ書に二度登場し、マタイが引用して、マリヤか らイエスが誕生した時、この預言が成就した(マタイ 1:22‐23)と明確に記していますので、「インマヌエル」はイエス・キリストを指し示す預言であることに間違いありません。

イザヤ書の「インマヌエル」の記述の背景を簡単に述べますと、ユダの王アハズの時代に、シリア と北イスラエルが連合して攻めて来ることを聞き、恐れます。

しかし、それは起こらないと、神はアハズに告げ、その事の確証として神からの「しるし」を求め るように告げますが、アハズは神を信頼せず、求めようともしません。 それで、神自ら「しるし」をお与えになります。それが「インマヌエル」の誕生です。

《 それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、 男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられ る。》(イザヤ7:14-16)(新共同訳)

その男の子がまだ物心が付く前に、つまりわずか数年のうちに、シリヤと北イスラエルの王は捨てられるという預言です。

事実、イザヤがこの預言を行なった二年後、紀元前 732 年にアッシリヤがダマスコを攻略し、シ リヤの人々を強制移住させました。そして、紀元前 722 年にサマリヤが陥落し、北イスラエルも 滅びました。

アハズは、イザヤからこの二つの国が倒れるという預言を与えられていたのに、神を信頼しないでアッ シリヤに助けを求めました。(列王記第二 16 章 7-9 節 参照)

結果として , シリヤと北イスラエルは倒されましたが、今度はそのアッシリアがユダを苦しめる ことになります。

《主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだこと のないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。》(イザヤ 7:17)

《それゆえ、見よ、主は大河の激流を彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッ シリアの王とそのすべての栄光を。激流はどの川床も満たし至るところで堤防を越え、ユダにみな ぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼はインマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。》(イザヤ8:7,8)

「広げた翼はインマヌエルよ、あなたの国土・・」というこの翻訳では、誰でも「翼がインマヌエルの国土を覆う」と受け取ってしまい首をかしげることになるでしょう。しかし、この「あなたの国土」とはアハズの国、ユダ王国のことです。

この「インマヌエル」は原語では文の一番最後に付け加えられています。ジェームズ王欽定約(英 語)では、最後に [O Immanuel _](おお、インマヌエル!)と音訳して付け加えています。

インマヌエルが現れる3箇所、イザヤ7:14,8:8,8:10の原語を比較してみましょう。

一目瞭然、3つとも同一の単語です。

7:14の方は「その名をインマヌエルと呼ぶ」ですから、固有名詞として音訳するのは当然と言えますが、8:8,8:10では構文も、単語も同一なのになぜか8節の方は「・・よ」と呼びかけて音訳している理由が分かりません。

《企てを考え出せ。それは破られる! 言葉を出せ。それは立たない。神がわたしたちと共におら れるからだ!》(イザヤ 8:10)

この句の末尾の部分(原文:おお イマヌエル)は なぜか、ほとんど、どの訳でも文として各国語に翻訳されています。
それでどう考えても、イザヤ8:8は「イ ンマヌエル」と音訳する所ではなく、8:10のように、文として訳すべき所だろうと私は思います。

ですから、この節は「・・激流は至るところで堤防を越え、ユダにみなぎり、 押し流す。その広げた翼はあなたの国土を覆い尽くす。おお、しかし神がわた したちと共におられる」と言うニュアンスで語られているに違いありません。
文節の変なところに「おおインマヌエルよ」が挿入されるので意味不明な文章になっています。

さて一般にこの「インマヌエル」についての記述は、理解の難解な部分の一つとされてい ます。それで、私なりに、考察してみました。

マタイによるイエスに適用された預言だという記述がなければ、一見普通の、当時の出来事につい て記しただけの記述のように思えますが、前後の文脈を注意深く読むと、「特別な預言」が埋め 込まれている部分として、単なる、物語の登場人物の 1 人としてではないことを暗に示すため の意図的な構成になっていることが読み取れます。こう考える理由は次の点です。

イザヤはこれらの言葉をずっと、アハズに対して語りかけていたのが、インマヌエルに言及するこ の部分だけ、「ダビデの家」に対する語りかけに変わっています。

また、呼び方も、記述の前後は「あなた」(単数)とアハズ個人に対して語っているのに対し、こ の 13 節で、ダビデの家全体に対して「あなたがた(複数形)」と語っています。

《主は更にアハズに向かって言われた。 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。》
イザヤ7:10-13

そして14節で「インマヌエルの誕生について語られます。

ですから「インマヌエル」は単に不信仰なアハズに対してではなく、「ダビデの家」に対する「し るし」であるということです。

「ダビデの家」という表現の意味するところは、ダビデの家から神の家を建て、それをとこしえに 保つという、いわゆる「王国契約」です。

《あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、 その王国を揺るぎないものとする。
この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座をとこしえに堅く据える。
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、 彼から慈しみを取り去りはしない。
わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据え られる。》
(1歴代 17:11-14)

「インマヌエル」が「ダビデの家」に対する「しるし」となるということは、彼こそが、その契約 を履行するダビデの子孫であり、神の王国の王となる者だということを示唆しているに違いありません。

さて改めて「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(マタイ1:26)という部分に ついての考察ですが、「インマヌエル」と呼ばれる子が誕生すると言う約束はありますが、すでに 触れたように、実際にそう呼ばれた人物は、聖書全巻のどこにも出てきません。

14 節で「おとめ」と訳されているヘブライ語 (アルマー)は、 若い女性全般を指す言葉で イザヤ書自体では、「処女」と断定できません。 たとえば普通に「新妻」であったとしても構わなかっ たはずです。実際「処女」という断定的なな意味を持つ語は他にちゃんとあり「ベトゥーラー」といいます。

ともかく、イザヤの時代、何らかの印象的な誕生をした子がいたと、考えられますが、聖書が、そ れについては何ら語っていないのは次に挙げる幾つかの理由が考えられます。 まず、「インマヌエル」は神を信頼する「しるし」として与えられたのに、それさえ無視したアハ ズに対して、「神が共にいる」という保証が無意味になった?

あるいは、基本的に将来の完全な救いの手だてとしての預言であるため、そこに焦点を当てるために、あえて、 当時の出来事の記録を省いた。 などが考えられます。

イエスも、生まれる前に「イエス」と名付けるようにと言われ、「インマヌエル」と呼ばれたこと はありません。

それは次の預言が示すように、「その名で呼ばれる」と言われていても、あくまで固有名は「イエス」であり、様々なその 名呼称は称号のようなものと言えます。

《ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。 その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。 王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。 万軍の主(ヤハウェ)の熱意がこれを成し遂げる。》
イザヤ9:5,6

「驚くべき指導者」ペレ ヤーアツ Wonderful Counsellor 
「力ある神」ギボール エル、mighty God
「永遠の父」アーダーブ everlasting Father 
「平和の君」サル シャローム Prince of Peace

この預言がイエス・キリストの誕生を示していることは疑いようのない確かなことです。そのみ子が「神、父」とさえ呼ばれることがあるということです。

それで、「インマヌエル」もこれらの呼称と同様、一種の称号、あるいはスローガンのように使われています。

さて、もし「インマヌエル」のヘブライ語の意味が、仮に、複数ではなく「神がわたし(単数)と共におられる」とい う意味であったなら、「わたし」はその当人、つまりインマヌエル自身を指すと言えます。 それはつまり、「インマヌエルなる人と、常に神(ヤハウェ)が共におられる」ということになります。
しかし「インマヌエル」の意味は「神がわたしたちと共におられる」ということなので、「わたしたち」 とは厳密にはユダヤ人のことで、つまり人間のことです。

となると、インマヌエル自身は、人から生まれる「子」なので、「人間」ですが、しかし「わたしたち」 の中に含まれるとは考えにくいでしょう。

「インマヌエル」が誕生したことによって、「安全に守られる、敵におののく必要はない」というの ですから、「インマヌエル」自身は「敵の攻撃におののいたり、守られる必要のある側の「わたしたち」 に含まれてない考えるのが自然です。

また、わたしたち(ユダヤ人)と「共にいる」という表現ですが、もし、霊的あるいは比喩的な意味で共におられる、つまり ヤハウェ神が、天から常に暖かく見守って下さると言う意味であるなら、地上に「インマヌエル」なる人物が 誕生する必要などは初めからないと言えます。

「インマヌエル」が実際に人々の中に存在するようになったゆえに、「神が共におられる」といえる 状況になると言うわけですから、やはり神は文字通りに、人間と共におられるという意味であると捉える べきであることが意図されているに違いないということです。

そうなると必然的に、「インマヌエル」が「私たち」と共にいてくれることそのものが「私たちと 共に神がおられる」という状態だと結論するのがもっとも文脈にそった正しい理解と言えます。 すなわち「インマヌエル」は「おとめから生まれた人の子」でありながら「人と共にいる神」であ るということになります。

これらは、「新約聖書」中の、キリストの神性に関する記述と合致します。

しかしここで、どうしても、あるところで燻っている論争に着目しなければなりません。
果たして人としてお生まれになたイエスは、バプテスマの後聖霊を受けて「油注がれた」メシアとなりましたが、いつ、どの時点で「神」となられたのかということです。

「権威が彼の肩にある」と言われていますが、それは「みどり児」のとき、生まれた時から有しておられるということでしょうか。
生まれた時から「力強い神」という権能があったのなら、ヘロデを避けてエジプトに避難する必要などなかったでしょう。

では「メシア/キリスト」なられた時に「神」となられたのでしょうか。

この論議は「イエスは人であり、同時に神でもあった」という主張に終止符を打つことになります。(この点はもう少し明確にしたいと思いますが、ここで記すと話の流れが変わってしまいますので末尾に「参照」として記すことにします。)

では次に「インマヌエル」の預言はどのように完成するのかを考察してみたいと思います。 といっても「インマヌエル」の行動、役割については何も具体的な預言はないので、関連した預言 からそれらを推察してみることにします。

先ず、インマヌエルがキリスト・イエスを指し示していたということは、メシアの預言と直結する と言えます。主な違いは、メシアは「油注がれた者」なので、バプテスマを受けられた時から成就しますが、「インマヌエル」はその誕生時から成就していると理解するのが正しいでしょう。

では、まずメシアの到来についての預言、ダニエル書 9 章の 70 週の預言と比較してみましょう。

《お前の民と聖なる都に対して、七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は 封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が 注がれる。
これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから油注がれた君の到 来まで七週あり、また、六十二週あって危機のうちに広場と堀は再建される。
その六十二週のあと油注がれた者は不当に断たれ都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされ る。その終わりには洪水があり終わりまで戦いが続き荒廃は避けられない。
彼は一週の間、多くの者と同盟を固め半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上 に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。》
(ダニエル 9:24-27)

70週が満了すると「逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、 幻と預言は封じられ」ることが成し遂げられます。

つまり、その時にはもはや違反、反逆は見られず、罪は封じ込められ、過去のものとなり、不義の 代償はすでに支払いを済ませ、永遠にわたる正義が始まっていることになります。

確かに西暦1世紀に成し遂げられた贖いにより、その根拠を確立されましたが、依然として、違反や反逆、罪や不義は続いています。

永遠の正義も、預言が封じられてもいません。
当然のことながら、これまでの歴史において、未だこれが成就していないことは誰の目にも明らか です。
このダニエルの預言が1世紀に完全に成就し、すでに過去のことと主張する人もいますが、そうした態度はどう考えても「成就」つまり物事を現実化させる神の意図と能力に対する軽視であり、冒涜的であると言わねばならないでしょう。

さて、このメシアに関連した預言とイザヤ 7,8 章の預言とを比較すると、興味深い、共通語句が目 に留まります。それは、「翼」と「洪水」です。

「その終わりには洪水があり」「憎むべきものの翼の上に荒廃もたらすものが座す」( ダニエル 9:26,27)

《激流はどの川床も満たし至るところで堤防を越え、・・首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼 は・・あなたの国土を覆い尽くす》(イザヤ8:7,8)

「荒廃をもたらす者」は終末期にユダヤを攻撃する敵であり、「洪水」はその様子を示しています。 イザヤの方は「アッシリア」の攻撃とその様子です。(すでに地図で示した通りです) これらの一致点から、「翼」はその広範囲に及ぶ影響力の膨大さのようなものを表しているのかも しれません。

いずれにしても、インマヌエルでもあるメシア、キリストは終末期における患難の際にご 自分の民を保護する「しるし」となり、「共にいる神」としての役割を果たされるということなの でしょう。

しかし、メシアの働きはそれで全て終了するわけではありません。 キリストは千年の間王として支配すると記されています。 この時の状況を示しているのが次の預言です。

《終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。 国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、 ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩 もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を 打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。》
(イ ザヤ 2:2‐4)

「神の家の山」は 3 節から分かるように、シオンを指します。シオンはエルサレムの 別名と考えて差し支えない仕方で用いられています。

これは、ハルマゲドン後、千年間治めるキリストとその花嫁である天に召されたクリスチャンたちによって復興した平穏な状況のエルサレムを表しています。

それまでは、諸国民が流れのようにエルサレムに向かうことはありません。そしてその千年紀の終わりに、驚くべきことが生じます。

《聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。》黙示録21:2

花嫁は夫の居る所にやってくるために支度を整えているということであり、キリスト と花嫁は、千年王国後、天から地に降りてくるということです。
ですからここでの「神のもとを離れ」の神は、父なる神(ヤハゥエ)であるのは間違いないでしょう。

ところが、不思議なことに、その地上の状態について次の聖句はこう記しています。

《見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。》黙示録21:4

ですから、ここで述べられている人と共に住む「神」とは父なる神ではなく「イエス」 であることが分かります。

これが、「インマヌエルの最終的な成就となる部分です。その時、文字通り「わ たしたちと共に神はおられる」(マタイ 1:23)が現実のものとなります。

《主はシオンを選び、そこに住むことを定められました。これは永遠にわたしの憩い の地。ここに住むことをわたしは定める。》(詩編 132:13‐14)

参照:
独り子 御子 という表記の場合 それは「ロゴス」のことであり、肉体となって地に来られたイエス・キリストは「人の子」と呼ばれます。(「神の子」という表現はイエスに限らず、天使やクリスチャンたちに対しても多くの箇所でそう呼ばれています)

ヨハネは端的にイエスは「肉」であると記しています。
イエスは人間であり、神ではありません。

なぜなら、人間アダムの罪に対応する(釣り合う)贖いとならないからです。

《彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。 20ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。 21あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。》申命記1:-19-21

これは態復讐法と呼ばれる法律で、償いには「同等のものが不可欠」という冷厳とした掟で、行き過ぎた報復の連鎖を断ち切るための神の知恵の現れです。

贖う必要があったのは神の命ではなく人間の命です。

もしイエスが神でもあったのなら、その代価は逆に過剰という不当な償いになってしまうでしょう。それは神の定められた贖いの法則に反することになります。

ですから、アダムの罪を贖うという極めて重要なこの業が成し遂げられるためには、イエスは絶対に神であってはならないのです。

だからこそわざわざ神は罪を負った人間の世に、完全な罪のない人間を備える必要があったのです。

《実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。》
1コリント15:20-22,45

「死」つまり「罪」は一人の「人」によって来た故に「死者の復活も一人の人によって来る」ということです。決して「一人の神」によって来るのではありません。

「最後のアダム」とは、真の(永遠の)命を伝え損なった最初のアダムに代わって、永遠の命を与える父であるということです。

最初の人間(固有名詞として呼ばれる)「アダム」はヘブライ語の普通名詞としては「人」という意味です。そしてそれは同時に「土」という意味の単語です。
ですからイエスは「最後の人」であり「最後の土」とも言い得るということです。

「肉体となって」という描写の意味が分かりますか。「人間として」ということです。これは私が言っているのではありません。
イエスご自身がご自分のことを「人間の子(son of man)」と表現していることを代弁しているだけです。

これを否定するもの、つまり、これに他の要素を付け加えたり、このシンプルな概念を正しく表そうとしないことはすなわち、「別の教え」を広めようとするものとなることは必死で、ヨハネに言わせれば「反キリスト」です。

《イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。》2ヨハネ1:7

イエスはマリアから人として産まれ、人として亡くなられました。イエスはあるいはキリスト(クリストス)油注がれたものはどこまで言っても100%人間です。ですから人間の命をあがなうことができました。

つまり人間として命を贖いとして神に捧げ、その後神により蘇らせれてふたたび命を得、昇天して「ロゴス」に戻られました。

最後に興味深い比較をご紹介しましょう。
旧約聖書中には「神」を表す語が、時に複数形(エローヒーム)であったり、単数形(エル、エロア)であったりします。
この違いは明確には分かりませんが、単なる普通名詞として扱われる際には単数で、人間との関わりというか、崇拝の対象としての称号という意味で語られる場合は複数形になるようです。

《わたしは神(ヘ語:エル(単数形)、ほかにはいない。わたしは神(ヘ語:エローヒーム(複数形)であり、わたしのような者はいない》イザヤ46:9

イザヤ9:5の《ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。》というイエス・キリスト関する預言の中でその称号の一つに挙げられている「力ある神」という表現の「神」も(ヘ語:エル(単数形)となっています。決してエローヒーム(複数形)ではありません。

この2つを併せて考えると次のような一つの結論にたどり着きます。

ヤハウェは一人の神であり、イエスとして人間として生まれることになったロゴスもまた一人の神である。しかし、ヤハウェはみ子を生み出し共に創造を行う神としてはエローヒームであり、そのような者はいない。ということです。

つまりロゴスはみ父と共なる協働創造者であるゆえに、人間からすれば間違いなく神ではありますが、ヤハウェのような者ではなく、原因者でもないということです。

《キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり・・》ヘブライ5:7-9

キリストは「従順」を学び、完全な者となった、つまりそれ以前は「完全な者」ではなかったということです。
父なる神には変化はないと記されています

《まことに、主であるわたしは変わることがない。》マラキ3:6
《父には、変化とか回転の影とかいうものはない。》ヤコブ1:17

しかしみ子には、新たなミッションをクリアすることによる、成長があるのです。


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