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「天国」への憧れを抱く方々へ ー「裁き主」になる用意と覚悟はできていますか。

あなたクリスチャンとして、次のキリストの言葉にも留意しておられることでしょう。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」マタイ7:1,2

言うまでもありませんが、これは、人を裁かないようにしていれば、世の法律上でも、神からの裁きも免れるということではありません。
自分勝手な基準で他人を裁定してはいけない。ということでしょう。
ともかく、「クリスチャン」たるもの、この態度は肝に命じるべきであるというくらい、明確な命令口調で語られて言います。

さて、誰をも裁いてはならないと厳命されたグループを神は天に召そうと考えておられます。

彼らは、比喩的にキリストの「花嫁」として、天に召し上げられますが、それは天的な主婦として「ああ、これで安泰、極楽、極楽。これこそ文字通りの究極の永久就職。 ラッキー!」というイメージで、「死んで天国に入れる日」を待ち焦がれている人も少なくないようですが、その生暖かい気分に水を指すようで恐縮ですが、神は決してそんなつもりで、ユダヤ人限定を廃止して、全人種からクリスチャンを募集されたわけではありません。

地上の人を天に召す目的に関して、ペテロはこう記しています。

「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」1ペテロ2:9,10

クリスチャンの存在意義というか、召された目的は、一つには、地上にいる間は、福音をのべつたえるため、そして、天に迎えられたあとは「王である祭司」となるということです。
すなわち天への召しの目的は「王 兼 祭司」として休みなく働いてもらうためです。
さて「王」としてというのは、どういうことかというと、召されて、あなたが今そこにいる場所「天国」とは「王国」であり、実権を有する国家機関であり、その「行政機関」の一員として、そこにいるのです。知ってました?

しかもそれだけじゃありません。他にも色々な職権を掛け持ちしています。「祭司職」です。
民の贖罪に関連した様々な業務を通して、神との取りなしをすることになっています。「大祭司」はキリストですが、あなたはそれを補佐することになります。
更には、「司法」に関する努めもあります。そのことに付いてはパウロの次の言葉に耳を傾けて下さい。

「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。」1コリント6:2,3

「人を裁いてはならない」はずの人かと思いきや、なぜあなた方は自分たちの問題をちゃんと裁けないのか、とパウロは嘆いています。
「裁き」ついては、クリスチャンは「全世界」を裁き、何と、み使いをさえ裁く立場になると明言しています。
仮にですが、場合によっては「ミカエル」や「ガブリエル」をさえあなたが裁くということす。無論ありえないでしょうが、分かり安くするために敢えて述べています。何とそこまでの職権があなたに与えられるということです。
「クリスチャン」として天に召されることには「このような、とんでもない」ことが関係しているのです。

さて、これまでの歴史上、こうした役職すべてを担った個人はおそらく、ひとりもいないでしょう。
では、どうなのでしょう。人を裁くと言う傾向がない。むしろ意識的に捨て去った人、まして公的にそんな経験が全くない人を天に召すという神のご意思はどのようなものなのでしょうか。

「裁く」というのはとても重い責任です。なのに、そのために全く未経験の人(表現に語弊がありますが、そんな 素人)を採用して大丈夫なんでしょうか。
採用の条件は、経験値や単なる豊富な知識などでは決してない、というのが神のセンスなのでしょう。
ただ必要な要素、資格は、「人となり」です。その人がどういう人なのかという事です。
もちろん実務上は、様々な教育や訓練が施されることでしょう。

手始めとして、終末期のキリスト臨在の際に、この世の裁きの時に彼らは主に同行します。

「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。・・天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。」黙示録19:8,14

何のためでしょうか。 記録は、この軍勢が何らかの行動に関わるのか何も示していません。
おそらく、「告訴人としての証人」という役割でしょう。

このことをノアの例から見てみましょう。
《(ノアは)その信仰によって世界を罪に定め》ヘブライ11:7

ノア自身は意識的に「(全)世界を罪に定めよう」と思ったのかどうか分かりませんが、結果的に、そうした役割を果たすことになったということでしょう。
箱舟を作るという信仰がどうして「世界を罪に定め」ることになるのでしょうか。
もう少しわかりやすく「たとえ」で示しましょう。

納品した製品にクレームが付き、クライアント:「これでは不良品です。注文書にある通りのちゃんとした精度の高いものを収めて下さい」
業者:「それは無理な要求だ、そこまで作れる会社などどこにもない!」
後日
クライアント:「同じ製品を依頼したノア社からの製品サンプルが届いたので来社して見ていただけますか。」
業者:「なるほど・・・確かにこれは見事だ。」
クライアント:「無理な要求ではないことをご理解いただけたと思います。」
業者:「分かりました。研究を重ねて技術を高めます。」

つまりノアは神の義の基準の「サンプル」となっているということです。
誰でも、同様の信仰、行動を取ることができた。という生き証人と言うことです。
「天の軍勢」としてキリストに伴うのは、復活したばかりの「花嫁」の「裁き人」としての初仕事です。

「私は、こんな世での命は早々に捨てて、早く天国に入り、神のみそばに行きたい。」などという、はかない願望を呟く人も少なくないようですが、神は何のために、なぜ、人を天に召すのか、考えてみても良いのではないでしょうか。

善人の住む場所が、天なら、善人試験というクリスチャンに課せられた、超厳しい試験に合格したもののみが天の住まいに招かれるのであれば、造られた時から、「天」、神の側近に住んでいたのに、今や悪霊となったものや、サタンはどうなのでしょうか。
このことを考えてみれば、「天国」に対する妙なあこがれは消え、現実的に物事を捉える機会になるはずです。

いずれは、天で戦争が起きて彼らは、あるべき居所を捨てた罰として、彼らの望み通り、そのあるべき居所から、完全に放逐されます。

《主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。》」ユダ1:6

《この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あのふるい蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。》黙示録12:9

「天に召される」事を願っている人のうち、聖書が明確に述べている、その目的、王という立場で、その後の地上の人間や、必要に応じてみ使いさえ裁くという重責を担うことになることをどれだけ認識しているのでしょうか。
おそらく、どうも私は、教会に所属しているうちの少なからぬ人は、そんな認識は皆無なのではないかと思えてなりません。


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