マタイ24-25章の「例え話」の真意 シリーズ3部作 Part3[タラント]
まず最初に「タラント」のたとえ全体を引用しておきましょう。
《14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。 15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。 16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。 18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。 25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。 27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。》ーマタイ 25:14-30
■「わずかな物」とは何でしょうか
21 節と 23 節に「わずかな物に忠実だった」という表現がありますが、
この「わずかな物」とは何のことでしょうか。調べた限りどの解説もこれは「タラント」のことだとしています。
1例を挙げると、こんな表現が見つかります。
1 タラント=6000 デナリと言われており、1デナリは1日分の賃金の値だとされています。
では1タラントは今日、どれくらいの金額に相当するでしょうか。
国税庁の民間給与実態統計調査によると、平成 28 年度の給与所得者(サラリーマン)の平均年収は男性 521 万円、女性 280 万円でした。
間を取ると年収 400 万程ほどということです。 これは 33.3 万 / 月 1日の賃金は13000円位となります。
1 タラント=13000x6000=7800 万円です。そして2タラントは、1 億 5600 万円、5タラントでは何と 3 億 9000 万にもなります。
5 タラントはもとより 1 タラントの 7800 万でさえ、決して「少なくはない」額の札束の山を目の当たりにすることはほとんどの人にとって一生の内まずないであろう程の金額です。
どう考えても 「 僅かな」 と表現される金額ではありません。
つまり忠実だった人に言われた「僅かなもの」とは、そもそもタラントのことではないのではないでしょうか。
文脈をつぶさに調べてゆくと、この着眼点は、確信に変わってゆくはずです。 このことを踏まえて続きをお読み下さい。
先に引用した某サイトに見られるように、(多くの解釈の陥りやすい点の典型だと思いますが)実際の記述(例え話)と、自分なりの解釈をごちゃまぜにして考察するため、矛盾点に気づかないのでしょう。
まずは、聖書記述そのものの論理性、整合性を逸脱せず、向き合うなら分かりますが、改めて考えてみて下さい。
この例え話の「しもべたち」は本当に「 タラント(金貨)に忠実」だったのでしょうか。
現代で考えれば、1万円札の束に「忠実」とはどういう意味でしょうか。
もう少し話を進めましょう。
預かったものも儲けた結果も非常に大きなものでしたが、五タラントの奴隷は二タラントの奴隷の2.5倍喜ばれたわけではありません。
あえて同一の表現が繰り返されているように、この両者に対する主人の評価は同一でした。 儲けた金額の問題ではないことが分かります。
では主人は、何を、どんなことのゆえに喜ばれたのでしょうか。
金貨の山に忠実だった事をでしょうか。
どう考えてもそうではなく、取りも直さずそれは、主人つまり主人の意向に忠実だったということでしか、論理性が保てないと思われます。
主人の意向は「商売をする」ことでした。 しかし幾ら「儲けを出すか」は問題にしておられないということです。
ですから意向は商売を「する」という。言われたとおり「行おうとする」というただそれこそが主人の評価に繋がっているということでしょう。
ですからその意向は「僅かな(ほんの一言の)」伝達であり、そういう意味で前者二人はその「僅かなものに」忠実であった。ということでしょう。
■「持たない者」が持っていなかったものとは?
そしてこのことから、29節の「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる」という「持っているもの」や「持っていないもの」とは何のことなのかも分かります。
「持っているもの」というのも「タラント」のことではなく、すでに考慮したように「主人の意向」に応えたいという気持ちを持ち合わせていたということに他ならないでしょう。
前代未聞のこの結論に異論を持たれる方も少なくないかも知れないので、もう少し説明を加えます。
なんとなく読んでいると、「そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい」という表現などから「持っているもの」とは「タラント」のように思えますが、そのタラントはもともと預かったもので奴隷の所有物ではありませんし、設けた分も含めて全て「主人」のものです。
実際、1 タラント奴隷は「さあどうぞ、これがあなたの物です。」と陳べています。奴隷の誰も「タラント」は所有していません。
「十タラント持っている者」がタラントを所有しているのなら、「一タラント奴隷」も所有していることになります。しかし彼は「持たないもの」と評されています。
これらのことから、結論の中で使われる、目的語を伴わない「持っているもの」「持っていないもの」は「タラント」のことではないと言えます。
そういうわけで「1タラント奴隷」が微塵も持ち合わせなかったものとは「主人の意向」に応えたいという気持ちであると言えます。
彼はその主人の「明確な意向」にさえ、指一本動かそうとしなかったのですから、当然しもべ失格です。 解雇されて当然でしょう。
主人は不当に、あるいは過当な要求をしていたわけではないのは「おのおのその能力に応じて」と記されていることから分かります。しもべたちに当然のそして「わずかな言葉で」期待をかける主人を「手厳しい親方」と考え「恐怖を感じていた」というのです。
ここには信頼関係も、本来の主従関係も存在しません。
端的に言えば、忠実さとは結局、主人の期待を自分の意向とし、その喜びのために自分も一肌脱ぐという気概のあるなしが問われているということでしょう。
ところで、この譬えについての様々な解説を見ますと、例外なく『この「タラント」は実際には何を指し示しているか』という論議が出てきます。
ネット等で検索してみましたが、ほとんどの共通した解釈は「タラント=タレント」であり神から与えられた賜物、能力や才能のことであるとされています。
タラントが何を表すかなどということは、譬えの目的から言えばほとんどどうでも良いことなのですが、(それに特定の意味があるなら、そのように語られるはず)しかし私から見ると、明らかに間違い、勘違いであると思えることが、通説のように言われていることは正しておこうかと思います。
「賜物」とは文字通り賜ったものであり、各人に与えられたものです。
仮に全く能力を使わなかったので後で、神からの賜物を「これはあなたのものです、として返却するようなものではありません。
■「商売をする」とは何を意味しているのでしょう
タラントは預けられたもの、託されたもの、であり、しもべ各人の生まれながに持っている才能などではありません。
主人がしもべに委ねた高価な値のものである「タラント」。
それが何を指しているかをあえて言うなら、キリストの霊的な財産、適用として考えればキリストが弟子たち(クリスチャン)に期待したこと、あるいは委ねたものは「福音」に他なりませんし、「商売」とは福音を分かち合う努力を払うことに違いないでしょう。
つぎの聖句が示すとおりです。
「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」-Iペテロ 3:15
つまり、キリストに信仰を働かせる理由、動機づけ、福音に関わる豊富な知識、などを、各人の持てる能力に応じて託され、またそれを他者に対して伝え、説得する「努力を惜しまない」態度によって、キリストの財産ともいうべきものに対する認識。
あるいは、イエスががメシヤとして地上に来られて、果たそうとされた業の成果を自発的に増し加えることに尽力した人々は、勤勉なしもべとして、キリストの喜びに入れられにふさわしいと言えるでしょう。
しかし、それにほとんど関心も示さず、「自分にできることは何か」という発想を自ら起草し「一肌脱ぐ」(クリスチャン的自己犠牲)という感覚を持ち得ない「ご利益主義」な人が、かろうじて「触らぬ神に祟(たたり)なし」に似た、自分なりに考えた精一杯の対処法が「これが地中に隠すという努力を惜しまずに、盗まれないように守って来たあなたのタラントです。」と差し出しさえすれば、これで万事 OK と思ったのでしょう。
しかし、それは大きな誤算でした。
1タラントもの貴重なものを託されたのですから、期待されるものを、多少でも「持っていた」はずですが、結局それさえも「取り去られる」ことになります。
これは、マタイ13章の「種を蒔く人」の喩えとリンクしているといって良いでしょう。
「また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。- マタイ 13:5-8;11-13
ここに、「天の王国」に関連して喩えその他で多く語られている、エッセンスというか真髄というか神とキリストの価値観、センスが浮かび上がって来ます。
「タラント」が何を表しているかをあえて表現するならば、それは福音に関する知識、認識、共有というようなものと考えられます。
「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」-IIコリント 5:18-20
そしてこの福音に関係した業は「忠実さ」と関連付けられています。
「そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」-IIテモテ 2:2
「祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。」-Iテモテ 1:11-12
1タラントのしもべが持っていなかったものー それは次の聖句に示されるようなクリスチャンとしての精神でしょう。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」- ローマ 1:16
「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。 人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。」Iテサロニケ 2:4
わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」-Iテサロニケ 2:4,8
さて、ここで一応、結論めいた「例え話の真意を探る」ことに到達できたかと思いますが、「折角の機会だから」という表現もちょっと妙ですが、
よく関連して比較される、たいへんに似通った「ミナの譬え話」についても、併せて考慮しておきたいと思います。
■「ミナのたとえ」と比較して分かること
「11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。 それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。
12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。
13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』
14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。
15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。
16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』 19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』 20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。
21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』
22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。
23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』
24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』
25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。 26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。 27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」ールカ 19:11-27
「神の国」が今や、たちどころに現れると人々が思っていたゆえに、その考えを改めるべく語られた喩えです。
話の目的から言って、神の国の「王位」を得るのはまだ先のことであることを銘記させると共に、それまでただ漫然と過ごすのではなく、委ねられ、期待されていることがあるということを示しておられるということでしょう。
タラントとミナの例え話は共通点はあるものの結論が違っているため、まったく別のものとして扱われているというのが一般的な解説です。
しかし、たとえの要点、目的は同じで、例え話によくあるバリエーションの違いであり、補足情報的な意味も含んでいるのでしょう。
例え話は、あくまで話としては架空のもので、奴隷の人数が 3 人と 10 人の違い、各人への額が5,2,1,や 1 ミナ均等の違いなど、仔細なことは他の物に置き換え可能なもので、それら両者の数字の違いは、さほど重要なものではないということでしょう。
つまりタラントでもミナでも、そしておそらくドラクマでも、良い訳で、逆に、オーバラップしていな部分は、目の付けどころはそこじゃないよと教えていると言っても良いでしょう。
肝心なのは、タラントでもミナの話にしても、神の国が到来するまで、相当な期間が有り、それまで「商売をする」ことが期待され、帰ったとき精算がなされると言うことを肝に銘じるということです。
「奴隷」を自認する、つまりクリスチャンとなるという個々のケースで言えば、たとえ委ねられたのが、西暦1世紀だったとしても、精算は再臨時、終末期の大患難の後です。
■「精算」が行なわれる臨在時に見られる三様の結末
さて、この2つの話で大きく異る点は、別の登場人物である「国民(敵)」の言動と、その結末です。
王になることを望まない人々と、しもべたちの商売がどう関係しているのかは、描かれていません。
しかし、同時進行するこの 2 つの出来事は「神の国」に関連した同じタイミングの結末、王位を得てその支配を開始する時の重要な出来事、つまり「裁きの執行」がはっきりと描かれています。
キリストの弟子を自認する人々の裁きと、王に敵対する者への報復です。
その「敵」に対する表現をみますと、単に[滅びる」というものではなく、「みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ」となっており、かなり過激です。他の翻訳もほぼ同様です。
《私が王として支配することを望まぬ、あの私の敵どもをここに引き出せ、そして奴らを私の面前で斬り殺せ』》。岩波訳
《わたしを王に戴くことを好まなかったあの敵どもをここに引っ張ってきて、わたしの見ている前で斬り殺してしまえ。』》塚本訳
わざわざ、「ここ」に連れてきて「私の目の前」でとなっていることから、「ここ」というのはおそらく「シオンの山」のことでしょう。
《わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。》詩篇 2:6
「ここに連れてくる」というのは、ハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めたという聖句にリンクしていると考えられます。
「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』」詩篇 2:1-3
そしてキリストの「見ている前で斬り殺」される場面に匹敵する状況に直面すること記されています。
《あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』》詩篇 2:9
タラントとミナの例えを合わせて考慮すると、終末期にキリストに関わる三様のグループが浮かび上がって来ます。
精算の日に分離される 2 種類の奴隷「主人の喜びに入る人々」「解雇され追い出される人々」そして「斬り殺されてしまう人々」この3番めのグループは、どうあってもキリストの王権を認めようとせず、死ぬまで逆らい続けるというか、キリストに戦いを挑む人々です。
改めてミナのたとえの19:26,27に注目してみましょう。
《持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。
ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは・・・》
この持っているものまで取り上げられる僕は、「外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりする」と言われる1タラント僕と同じで、同時にそれは、門前払いをくらい「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言われてしまう「5人の愚かな乙女」たち、そしてまた「泣いて歯ぎしりする」忠実でも賢くもなかった「悪いしもべ」たちと同一で、主人から退けられます。
少し前の部分で「・・終末期にキリストに関わる三様のグループが浮かび上がって来ます。」とサラっと書きましたが、実はこのことは「キリスト教」にとっては、聞き捨てならない極めて由々しいことなのです。
常に「二元論的」というか「救いか滅びか、天国かさもなくば地獄」という二者択一を迫るキリスト教にとって、どちらでもないグループは存在しないことになっているからです。
しかし、上に引用したように、退けられる僕に言及したあと《ただ、私が王になるのを望まなかった・・》とあるように、「ただし」敵どもに関しては、退けられただけで済むわけではなく・・という意味の文章が続いているのです。
つまり、外の暗やみに追い出され、そこで泣いて歯ぎしりするしもべたちは、決して「敵」ではなく「斬り殺される」グループとは別扱いとなっているということです。
「折角の機会」ですので、すこし長くなりますが、このことを扱ってこのレポートを閉じることにしましょう。
ルカ 9:27 の冒頭の「ただ」と訳されている語は「ギ語:プレイン but しかし、 nevertheless, notwithstanding それにもかかわらず except 除く などと言う意味を持ちます」で基本的に「(それ)以外」のものを指し示す時に使われる語です。
つまり、その語の直前の内容を否定する働きがあります。
ここで、いくつかの日本語訳を列挙して比べてみましょう。
「他方」 岩波翻訳委員会訳1995
「しかし」 口語訳1955、前田訳1978
「ただ」新改訳1970
「ところで」新共同訳1987、フランシスコ会訳2013、聖書協会共同訳2018、塚本訳1963
例えば、新共同訳のルカ19:27はこうなっています。
《ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを・・》
新共同訳は、「プレイン」という語を他のすべての箇所で「しかし、だが、ほか、いずれにせよ、それにしても」などと同様の語を当てていますが、唯一ここだけ「ところで」としています。
【「ところで」の意味: いったん話を切って、別の話題に変えるとき用いる。ときに。それはそれとして。】
「それにもかかわらず」という前述に対して否定的な要素を含む内容を述べようとしている文章を、「ところで」にすり替えて、前述を無視して全く別の話としてしまおうという意図がうかがえます。
何故なんでしょうか。
すでに上に述べたように、「常に「二元論的」というか「救いか滅びか、天国かさもなくば地獄」という二者択一を迫るキリスト教にとって、どちらでもないグループは存在しないことになっているからです。」
「退けられた者は、滅ぼされ、地獄にゆく」という教理を完全に否定する明確な証拠となってしまうからであり、読者に、それを気づかれたくなかったのでしょう。(この点の詳細は次の記事でご覧ください)
このことからも、滅びに通じる広い門を通って入ったクリスチャンは、天の王国から閉め出されますが、命が絶たれるというものではないことが確証されます。
この点に関する詳細については、次の記事を御覧ください。