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あなたは自分の「天分」をどれほど意識していますか

天分とは「天が分けてくれた役割や特技、恩恵、自分らしさなど」のこと、つまり神からの賜物とも言えます。
そう考えると、実のところ、体や心、その働きなども全て「天分」と言えます。
しかし「天分」と「才能」は同じではありません。
「才能」は他の人との比較が可能であり「上には上がある」と思えるのが「才能」です。
しかし、「天分」は比較できるものではないというか、「比較」するようなものではないということです。

聖書の一節に次のようなものがあります。
《自分の仕事に細心の注意を払ってください。そうすれば、仕事がうまくいったという満足感が得られ、他の人と自分を比較する必要がなくなります。》ガラテア6:4 標準英語訳

ここで言う「仕事」とは職業のことではなく、「日頃の行い」あるいは「生き様」と捉えるのが適切でしょう。
もう一つ別の訳も載せておきましょう。

《めいめい自らの行ないをしらべてください。そうすれば他人に対してではなくて、もっぱら自らに対して(恩恵の)誇りを持ちえましょう。》前田訳

ですから「才能」の有無というより、自分自身に授かった「恩恵」に誇りを抱くべきものが「天分」ということです。

古くからあることばに「切磋琢磨」というのがあります。
学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること。という意味だとされています。
「切する」とは切り刻むこと、「磋する」は研ぐこと、「琢する」は打つこと、「磨する」は磨くことです。
象牙や石などに精緻な加工を施して、工芸品を作ることを表しています。

さて、そもそも象牙や、原石がなければ、研ぐことも磨くこともできません。天分を感謝し、見極めてどのように磨いてゆけば良いのかを模索するのは喜ばしいことです。

ところで「天分」の対義語は何だか知っていますか?
ここで改めてこの記事のタイトルをご覧になって見てください。
わざとこうしたタイトルにしてみたのですが、大抵の人は、このタイトルに何の違和感も感じなかったとおもいます。

ですが、「自分の天分」? 実はこの表現は厳密に言うとパラドックスを起こしているのです。
「自分」と「天分」は対義語だからです。「短所の長所」とか「特異な苦手」と言っているようなものなのです。

「天分」に対して「自分」とは自らが自らに分け与えた「分」 簡単に言えば「自我」そのもののことです。
「自分」の主な働きは、私はこのために産まれてきたに違いないというような感覚。
俺は絶対こうでなくてはいけない。というような自覚。 それが自分です。

実際には「自分」という感性も、「天分」のうちのひとつなのですが、自由意志という「自分」という領域が人間だけには与えられています。
ですから「自分」は「天分」に対する対義語にとどまらず対抗する勢力のようなものにさえなりかねません。

生まれつきの特性だけでなく、呼吸や睡眠など、自然の無意識な部類に入るものも言わば「天分」の領域と言って良いでしょう。
具体的な、自我からの欲求や渇望は「自分」から出ます。

さて当然話が変わるようですが、サタン(そして悪霊と呼ばれるようになった天使)は「天分」を捨て、「自分」だけを採用する行き方を選びました。
彼らには恣意的な自らの欲求を満足させること以外、他に何の関心もありません。
利己的どころか利己心しかない存在です。彼らのその自らの分とは、意識的に「人に災いをもたらす」ことにあります。

《地と海とは禍いだ。なぜなら、悪魔は自分にはもはやわずかな時しか残されていないのを知って、大きな憤激に燃えたぎりつつ、お前たちのところに降ったからである》黙示録12:12

「大きな憤激に燃えたぎり」とありますが、人類がサタンに何をしたというのか。恨みを買う覚えは何もない。
サタンにとって人間に「禍い」をもたらすこと自体が「自分」つまり自らに課した努めなのでしょう。

稀に「破壊や攻撃」を使命と考える人がいます。
その自らの分とは、意識的、積極的に「人に災いをもたらす」ことです。
またまた話が変わりますが、サタンの話が出てきたので、ここで、日本古来の「鬼」についても扱っておきたいと思います。

恐らくどこからか伝わった聖書のサタンのイメージが、日本人に「鬼」のイメージを定着させたに違いないと思うからです。

「鬼」
一般的な解説:「見えないが、人間以上の力を持つおそろしい存在。人にわざわいをもたらすもの。また、そのような人。」

恐らくそのイメージの発祥は聖書の「サタン/悪霊」であろうかと思われます。
角や牙があるともされているので、ダニエル書や黙示録の野獣のイメージも加味されているかもしれません。
ところで文字通りの野獣は、弱肉強食的な現実を別にすれば、「災いをもたらそう」という意図を持っているわけではありません。
しかし「鬼」は意識的、恣意的に「人に災いをもたらす」ことを自らの努めとしているということです。サタンと同じです。

ところで「鬼」という単語で思い浮かんだフレーズがあります。
人間としての優しさを発揮してはいけない例外的な場面というようなものがあるようです。
例えば相手が自分に特別の感情を抱いていてそれを受け入れるわけにはいかない場合。
そんな時よく言われるのが「心を鬼にして」でしょう。
しかし、鬼は単に非情というわけではなく「災をもたらす」ことを自らの使命つまり「自分」としているものですから、決して「鬼の心」を持ってはいけません。

常に温和で優しい人で有りたいと思いますが、時に毅然とした態度が必要な場面も確かにあります。
そんなときは「心を鬼」にするのではなく「心を神」にして優しさの中にも、なおかつ毅然とした態度で対処したいと思います。

結論:

「天分」と「自分」の絶妙なバランスと言うかハーモニーを保つことが最善最適な人生を送る秘訣なのだろうと思います。

あなたの「自分」つまり自らが、自らに分け与えた分、様々な欲求、人となりや他人への関わり方、成し遂げようとしている業、など、時折「わたしの自分」はどんなものだろうと考えて見るのも有益だろうと思います。

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