患難前携挙説に伴う「空中再臨」の謎
※↓はこの記事の音声ファイルです。朗読を聞きながらお読みいただけます。
いわゆる「携挙」と呼ばれる教えについて、すでに何年も前にHPに投稿したものですが、ここに改めて1つに纏めておこうかと思います。
題して「この1記事で「携挙」のすべてが分かる! 必読。」
さて、プロテスタント系福音派に「空中再臨」「地上再臨」という解説が見られます。不穏な事象が見られる昨今、終末期の獣の刻印はワクチンパスポードだ、などの声が大きくなっているためか、「患難」近しと、「携挙」ブームも一段と熱が入っているようです。
まずは、落ち着いて、改めてこの説をじっくりと考えてみることにしましょう。「患難前携挙説」によれば、キリストは最初に地に来られ、その後、大患難前に空中再臨があり、患難後 (7年後辺り)に地上再臨があると言われています。
更には「患難中携挙説」や「段階携挙説」というのもあるようですが、それはさておいて、いずれにしても、多くのクリスチャンの間では、先ず「空中再臨」その後「地上再臨」ということになっているようです。
ということは、初臨を含め、キリスの臨在は合計 3 回あるということです。
西暦1世紀に 初回
現代の空中再臨時 2回め
現代の地上再臨時 3回め
聖書のどこにそんなことが書かれているのでしょうか。
聖書にははっきりと「二度」しかないと書かれています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているようにキリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」ーヘブライ9:27,28
なぜパウロは三度めの到来について言及しなかったのでしょうか。
パウロがここで述べているのは、人間は生を受け、しかし受け継いだ罪のために必ず一度、死を経験します。(老衰、事故死、病死など)
そして復活後の裁きの際に死に定められる人の第二の死、もしくは永遠の命が保証される命を得るかどちらかで、何れにせよ、命に関して三度目はないのと同じで、キリストの到来も二度であり三度目はありません。
試しに「空中再臨」というキーワードで検索をかけてみました。
上位に掲載されている、たまたま開いたサイトに記されていた説明を一部引用させていただくと、次のようなものがありました。 説明文としてわかりやすかったので、一部引用させていただきますと、
ー Remnant 終末論 http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/shumatsu04.htm【「私は、これまでずっと日本の教会において、キリストの再臨は『空中再臨』と『地上再臨』の二段階である、という説を聞いてきました。
すなわち、患難時代の始まるときにキリストの空中再臨があり、それと同時にキリスト者の復活や、携挙(キリスト者が空中に携えあげられること)がある。それから七年の患難時代が始まって、その患難時代の終わりにキリストの地上再臨がある、という説です。
「携挙」ということば自体は聖書にはありませんが、教会が天に一挙に引き上げられ ( 携え挙げられ )て、空中で主と会うということを意味する用語です。・・・「第一の復活」には A と B があり、A は教会の携挙の時に主にあって死んだ者がよみがえり、朽ちない新しいからだを与えられます。
Bは、患難期においてイエスをメシアと信じて殉教した者たちがキリストの地上再臨の時によみがえる復活です。】
そして、やはりネット検索でたまたま見つけてサイトですが、このような解説をしておられる牧師がおられました。(私はこの方を存じ上げませんし、個人的にも何ら関わるものではありません。)
このサイトでは、再臨が2度だけでなく、復活も患難前と後の2度あるということで、これにはさすがに正直驚きました。
しかも「第一の復活 A]「第一の復活 B] という表現には2度びっくり。
ほんとうに「第一」が2つあっていいのでしょうか。
どうやら、携挙に引き続いて「復活」が起きるという聖句は無視できないらしく、患難前の空中再臨の際に携挙があると、その後直ちに復活も生じることになるので、「第一の復活」も2段階にせざるを得ないとうことかもしれません。
ということで、ともかく、「第一の復活」を検証してみることにしました。
(いわゆる「携挙」については後日、レポートを掲載する予定です)
さて「第一の復活 A]「第一の復活 B]ということで「第一」にA,Bというような序列的な捉え方に聖書的な根拠があるのかを確かめるために、ひとまず黙示 20:6 の「第一の復活」の「第一」と訳されるギリシャ語「プロトス」について調べてみます。
幾つかの聖句のこの語が様々な翻訳でどのような単語に訳されているかを見てください。次の翻訳の略語を示しておきます。岩波翻訳委員会訳 [ 岩 ] )新共同訳 [ 共 ] ,前田訳 [ 前 ] ,新改訳 [ 改 ] ,塚本訳 [ 塚 ] ,口語訳 [ 口 ]
一例として、マタイ 19:30 に見られる「プロトス」はこうなっています。
「最初 ( プロトス ) の者の多くが最後の者となり、最後の者が最初 (プロトス ) の者 となる」
「最初の者」 [ 岩 , 前 ]
「先の者」 [ 共 , 改 , 口 , 文 ]
「一番の者」 [ 前 ]
などで、「プロトス」の殆どはこれと同様に訳されています。
他には、マルコ 6:21,ルカ 19:47、使徒 13:50; 16:12 などでに出てくる「プロトス」は「指導者たち、筆頭の者、名士、有力者、おもだった者たち」などと訳されています。
また、使徒 17:4 の「プロトス」は身分の高い ( 女たち ) [ 岩 ] 、「おもだった婦人たち」 [ 共 ] 、「一流の婦人」 [ 前 ] 、「貴婦人たち」 [ 改 , 口 ] 、「有力な婦人たち」 [ 塚 ] などと訳されています。
さらに、1 コリント 15:3 の「プロトス」は
「まず第一に」 [ 岩 ] 、
「最も大切なこと」[ 共 ] 、
「第一義的に」[前]、
「最も大切なこと」 [改]、
「一番大切な事」 [塚]、
「最も大事なこと」[口]。
1テモテ 1:15 の「プロトス」は、「筆頭者」[ 岩 ] 、「最たる者」[ 共 ] 、「わたしこそ第一」[ 前 , 塚 ] 、「かしら」 [ 改 , 口 ] 、「首なり」[ 文 ] 。
そして、ルカ 15:22 には「急いで極上の ( プロトス ) 衣服を出して来て、息子に着せなさい。」という表現が見られます。
いずれの場合も「最上級」の語として表されています。
また、契約や神殿に関するヘブライ人への手紙(9:1,2,6,8,15,18; 10:9) で使われている ( プロトス ) もすべて唯一であり文字通り最も初めのもの [ だけ ] を指しており、2次的、付随的なものの入り込む余地を許してはいません。
最後に興味深い例として、マタイ 27:5 の「プロトス」を挙げておきましょう。
「七人の兄弟がいました。長男 ( プロトス ) は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました」ーマタイ 22:25,26
ほとんどどの翻訳も「プロトス」(字義訳「その最初のもの」)を「長男」と訳しています。
兄弟の最初の者だから「長男」と訳しているわけですが、先に引用したサイトにあるような「第一の復活 A、第一の復活B」という感性を持つ方は、おそらく次男を「長男 B」と呼び、末っ子を「長男 G」と呼ぶことに何の違和感も感じないのでしょう。
しかも、「第一の復活」について聖書が明らかにしているのは、黙示20:5,6 の2箇所だけであり、この記述は、艱難も終了し、サタンが捕らえられた後、千年王国の開始時点での出来事としての記述です。
このタイミングでの復活に与る人以外の「ほかの死者」は千年が終わるまで生き返らなかった。とはっきり記されています。
もし、このときの死者が、患難期の殉教者だけを指すと言うのなら、歴史上のそれ以前のクリスチャンも「他の死者」の中に入ってしまうことになります。しかしそれでは他の聖句との整合性が取れませんので、当然この「第一の復活」に与るのは全クリスチャンの死者を対象にしたものと言えます。
ですから、言葉の意味からいっても、「第1」は唯一 Only one chanceであるのは明白です。
前述しましたが、患難前に「携挙」があるということにするためには、それに続く「復活」もその時引き続き起きなければならないために、苦肉の策としてどうしても、復活二段回施行という不思議な教義を創設せざるを得ないのでしょうが、池に投げた小石が、ずっと波紋を広げるように、無理してねじ込んだような教理は、聖書記述の整合性を壊すので、他の様々な箇所にその影響が広がってゆくことになります。
ましてや、勝手「に新設した方の「患難前第一復活」を「A」本命とし、本来聖句が述べている、患難後の「第一の復活」の方を B 級の復活と呼ぶ神経はいかがなものでしょうか。
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