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「子に口づけせよ」に見る創造者なる神の想いと願い

先ずタイトルに関係する詩編2篇を引用しておきましょう。

「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」・・
それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」
詩編2:5-12

ここで、主に「仕えよ」と訳されている語は、ヘ語:アバドで「労働、耕す」などとも訳されていて、信仰を持つとか、信者になるということではありません。

例えば、創世記2:15には「人をエデンの園に置き、そこを耕させ(アバド)」という記述があります。 無理に訳せば、アダムを、エデンの地面に【仕えさせ】た。ということになります。

ですからここでの「仕えよ」は、神の目的に順応してその計画に協力するようにと言う要請と考えられます。
何しろ「怒りは今にも燃えようとしている」という最終ギリギリの局面ですから、何らかの知識を得て、クリスチャンになろうかどうしようかなどという選択するような時間的猶予などまったくありません。

求められているのは「悟れ。慎め。恐れつつ。おののきつつ喜べ。」などです。
特に最後の表現は興味深いですね。「怖がりながら嬉しがれ!」とは、神でなければ言えないセリフでしょう。
その要請の目的は「おまえたちが道で滅びないために。」ということです。
「道で」というのは(ヘ語:デーレク)「途上」という意味合いのようです。

地の王たちが一同に会しているこのタイミングは、いわゆる「ハルマゲドン」であり、すでに大艱難も終了し、「人の子」の印が天に表れるというキリスト臨在に立ち会っている場面です。
それは黙示録で描写されている次の場面と同様です。

「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」
黙示19:19:20

まさに 逮捕後直ちに現行犯で処刑される寸前です。明暗を分ける唯一の道は、子に口づけする、つまり、その主権を認めて和解の意思を表明し「矛を収める」かどうかにかかっています。

さて、ここで改めて、詩編2篇の表現に注目したいと思います。
「燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。」
注目したいのは、この期に及んで、このタイミングでなぜ「しかし」なのかということです。

キリストは、終末期に「裁く」ために、あるいは、生かしておくわけにはいかない者を断裁するために臨在されます。それは確かにそうなのですが、この詩編の文脈から言うと、神はいわゆる「悪者、これまでの悪行と今現在の所業のゆえに当然の報いとして、まさにようやく今、命を断とうとする決意の瀬戸際で、「しかし」今一度、彼らにチャンスを与えられるのです。
「子に口づけせよ」ただそれだけです。

言い方を替えれば、ある意味で神が、み子を遣わされた目的は、裁きによって滅ぼすためだけでなく、み子に「口づけ」させるチャンスを与えるためでもある、ということです。
「燃える怒り」を表明しつつ「しかし」私は「一人の王を立てた」。これが「しかし」の神の本音なのです。

さて、ちょっと話が前後しますが、先に引用した「戦いを交えるのを見た」(黙示19:19新改訳)という一節ですが、これは全くの誤訳です。
これでは、交戦がなされていたかのような印象を与えますが、ハルマゲドンの戦争は実際に戦うことなく終了します。
あくまで、戦うつもりで「集まった」だけです。

「戦いを挑むために集まっているのを見た。」フランシスコ会訳
「戦いを挑むために、結集しているのを見た。」岩波翻訳委員会訳
「戦うために、集まっているのを見た。」新共同訳
「戦うために集められた。」前田訳
「戦争をするために集まって来るのを見た。」塚本訳 】

ヨハネが「見た」のは戦闘風景ではなく、「集合している様子」です。
神には、人間と「戦う」意思はありません。
あるのは、神と戦うために集合した者たちを「説得する」ことと、最期的な警告が与えられた後、なお聞く耳を持たない者を、止む無く、捕らえ、処刑することです。

この神のセンスをあなたはどうお感じになりますか?
私利私欲のために、何千人何万の人の命をないがしろにしたような為政者は少なくないでしょう。
信じがたいことに、それでも、その遣わされた一人の王、み子に口づけするだけで、許そうとされるということです。多くの辛酸をなめさせられてきた一般国民は、「冗談じゃない」と感じるでしょう。
確かにそうした「義憤」を感じるのは私達が、「神の像」に造られているからに他なりません。

無論、神はその心情をよくご存知でしょう。誰よりも心を痛めてきたのは誰でしょうか。
虐待される人を見ることは「私の目の玉を打つ」に等しいと感じられる神こそ、なんせ、数十年どころか、何千年もの長い年月、それに耐えてこられたのですから、あなたの心情は分かりすぎるくらいよくご存知でしょう。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」ローマ11:33

ここら辺りが「親の心、子知らず」ではないですが、「神の心、人知らず」というところでしょうか。

そうは言っても、自分は人間の悪徳の犠牲になったと強く感じている、あるいはそうした感情移入を働かせる人々は、「義憤」と「哀れみ」を天秤に掛けて、やはり「義憤」の方が遥かに勝っていると感じることでしょう。
「しかし」ここでも想い起こすべきことがあります。
人間の創造者、命の分け与え主であられる神の心情です。
詩編2篇には、ハルマゲドンに集結した王たちへの、神の悲痛なまでの訴えが込められています。

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」エゼキエル 18:32

神は決して「喜んで」人間を滅ぼすわけではありません。やむを得ず処刑されるのです。
私があえて、神の「悲痛なまでの訴え」と表現したのはそういうことです。
生きよ! どうあっても 謹んで、滅ぼされないための算段をして、とにかく生き続けよ、という神の心情です。

ハルマゲドンで「滅ぼされる人」については、嫌というほど聞いていると思いますが、ハルマゲドから「救われる人」については、ついぞ聞いたことがないと思いますので、ここで、ハルマゲドンから救われた、つまり「子に口づけ」したと思われる為政者についての聖書の言及をご紹介しておきましょう。

「底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。」黙示20:3

千年王国の開始前にサタンが封じられるのは「お仕置き」ではなく、引き続き「諸国の民」を惑わすことを阻止するためです。
諸国の民がいるということは、諸国があり、諸国の王、国家元首がハルマゲドン後の千年王国に存在するということに他なりません。

では、ここで重大な質問というか、疑問の提出です。
ハルマゲドンに集まった王たちの中に「滅ぼされない」人がいるのに、クリスチャンとして、長年忠実に神に仕えてきた、と、ともかく本人はそう思っている「広い門」を入った人たちが、滅ぼされて永遠に地獄の火に苦しめられるのはどうしてですか???

今考慮してしている「子に口づけせよ」と、言わば「懇願」されるような神のセンスと、「永遠の責め苦に合わせてやる」と言われる神のセンスは同一だと思えますか。
明らかに、真逆です。どちらかが勘違い、或いはひどい間違い、もしくは悪意のある神に対する中傷です。
ちょっと、横道に逸れましたが、このことに関する詳細は次の「狭い門」に関する、間違いだらけの一般解説を斬る」という記事を御覧ください。

さて、ハルマゲドンに集結する「王たち」である国家元首も、大抵様々な宗教に属していると考えられます。
欧米では、その殆どは何らかのキリスト教関係の宗派でしょう。
その他、無宗教、無神論者、各種新興宗教、仏教、ヒンズー教 ・・・
(しかし、人間が伝統的作り上げてきた宗教などは実質的に大差ない)
この瀬戸際での最重要なことは、ただ、み子を認め、その王権を尊重すればいいだけのことです。

ともかく、千年王国で安住に暮らしていることが、明確に描かれている「地の王たち」ですが、この存在は「生きよ! お前たちが滅びないように、子に口づけせよ!」という神の心情が実を結んだ例証となっているのです。

ここまで読んで頂いた方には、この続編とも言うべき、次の記事も、ぜひ、お読みいただければと思います。



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