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神と遊ぶ

もうずいぶん昔、40年近く前に書き留めたメモですが・・・
一応、ブログの隅っこの方にこの記事をの載せてはあったのですが、改めて記事にしてみようと思い至りました。
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わが家の娘がまだ幼い頃「パパー あしょぼ」をよく口にするようになって、期待に満ちた親しみある笑顔で見上げて「パパあそぼ」と言わせるものは何なんだろう、この感覚はどこから来るんだろうなどと、考えているうちに、どういう分けか、「神と遊ぶ」という考えが浮かんできた。

「神と一緒に遊ぶ」という考えはあまりに不敬な考えだろうか。
子が父のふところで遊ぶ、そして遊び疲れて母のふところで寝息を立てる。このほほえましく穏やかな光景を考えると父と遊ぶという感覚は、創造者の意図に沿っているに間違いない。と、思えてきた。

果たしてそのひらめきは妥当なものだろうか。
 私は、聖書研究における様々な思考の中で、自分なりのいくつかの「ものさし」を持っている。 いい機会なので、ついでながらというか、それをここでご紹介しておこう。

人の言動、思考の原因は基本的に対照的な次の2つがある。
つまり1つは、神が人をそのように設計されゆえ、そしてもう一つは、
人がアダム由来の罪を受け継いでいる故。
簡単に言うと、人間の事象のすべての発端は、創造に起因するか、罪に起因するかのどちらかである。

現実には、それらが複雑に絡み合っているが(例えば食欲があるのは創造者の設計によるが、貪欲な過食は原罪の影響?)
いずれにしても、この「ものさし」を当てて見るならば、一瞬判断がつきにくいと思えるようなことでも、関係する要素を容易に分析する助けとなるということに気づいた。

さて、話を元に戻そう、子供が父親と遊びたがるのは、人間が罪を受け継いでいるせいか?
どう考えても、そうは考えられない。やはりこれは、神が人をそのように造られたからに他ならない。これも人のうちにある「神の象」の一部に違いない。

さて,そうやって考えてみると今度は、神は人と遊ぼうとされるのだろうかという、さらなる妙な考えが浮かんできた。
例えば、創世記2:19には「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 」という記述がある。

この、人が、神の創造物の名付け親になる、というのは、決して、「ポチ」とか「タマ」という名付けの事ではない。アダムは動物に「固有名詞」ではなく「普通名詞」を付けた。
どういうことかと言うと、例えばヘブライ語の 蛇(ナーカーシュ)には「飲み込むもの」という意味があるとされている。

 アダムがそれらすべての動物に適切な名前を付けるためには相当な期間、観察したり、世話をしたり、一緒に遊んだりしたであろうと推察される。
そして、それぞれの特徴を捉えて呼んだものが、そのままヘブライ語の普通名詞になったということである。

では これは、アダムに与えられた、成すべき務め、勤労だったのだろうか。
 アダムの「仕事」ということであればすでに2:15で「エデンの園に住ませ、耕させ、世話をさせた」とあるので、神が造られた動物に「名前を付ける」というのは、神とアダムとの楽しいコミュニケーションだったに違いない。
 つまり神と人との 「遊び」 の範疇に入ることではなかったかと思う。

「・・・人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」という描写はまことに興味深い。

 神はご自分が造られた実に様々な動物を「ほら,こんなのもいるんだよ」という感じで一匹づつアダムのところに連れてきては,彼が感心したり,驚いたり,遊んだり,ふざけたりしているのをご覧になって,人とのコミュニケーションに「楽しみ」を感じられたに違いない。

 確かに創造物の中には子猫がじゃれ合ったりしている時のような。こっけいなしぐさや、見ているだけで面白いユーモアにあふれたものがあることを考えると,確かに神は生命維持のための生活必需品だけでなく、楽しませる要素、いわば子供にとっての「おもちゃ」のようなものも備えておられると考えて良いように思える。

「神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜び(楽しさ)で満たしてくださっているのです。」-使徒14:17

 言い換えれば神は人間と共に、もっぱら「楽しむ」と言う目的のために、つまり、人が「神と遊ぶためのもの」と表現してもいいようなものも造られたと言えるのではないか。
 そういう観点から見れば例えば,創造物を堪能する、例えば、森を歩いてバードウォッチングを楽しむ,山に登って大声を上げて山彦を聞くということなども,(「ヤッホー」神の固有のみ名?)ともかく、言ってみれば、「神と遊ぶ」という表現こそが一番ぴったり来るように思う。

さて「きずな」とは,どんな時に築かれるだろうか。
子は親とのきずなを毎日の生活の中で,慈しみ、愛され、教え、教わり、そして人は同じ目的をもって共に働くとき,きずなを強めることは確かだが,さらには,「一緒に遊ぶ」とき,リクレーションを楽しむ時、また違った形で親密なきずなを培うのではないだろうか。

 そういうわけで、我が家では旅行やリクレーションの日を「今日は神と遊ぶ日」と呼んでいるのである。
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子供にとって、親は、特に父親は、時に怖い存在に違いない。
ある程度の年になれば、自分が全面的に養われていることも知るようになる。困ったときには何より心強い、人生の先輩であり、頼りがいのある指導者であり、保護者でもる。
それらを十分知った上で、幾つになってもやはり、子供は親父と「遊ぶ」という感覚を忘れないのは、人間が「神の像に造られている」からに違いない。

「あなたがたは、…神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8:15)

「アッバ」というのは、言わば「父」の幼児語のようなニュアンスで、「おとうちゃん」という言う意味です。

神に対する畏敬の念を抱いている方々、クリスチャンのみなさん!
時には一緒に、アッバ 神と遊ぼっ!
そして、その暖かな関係のうちに互いへの愛を自らのうちに育みましょう。

時折、自分はクリスチャンとして、隣人を愛することが難しいという感覚で悩んだりすることもあるかもしれません。
しかし、順番どおりにすれば良いのではないでしょうか。

《私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。》1ヨハネ4:10,11

まずは、ただひたすら、思う存分神からの愛に浴し、それから、やおら、少しずつ、ゆっくりと、できるときに出来るだけのことを隣人に示してゆけば必ず成長してゆくのでしょう。


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