掌編小説 かれゆく
彼が枯れる。長い間かけてわたしに何もかも与えつくしたあげく、すっからかんになって、わたしを残して枯れていく。
彼から何もかも吸い取って暮らしてきたわたしは、からだじゅうの、細胞のひとつひとつがはちきれんばかりだ。もてあますくらいに。
かつては、彼だってそうだった。頬はふっくらしていたし、目にも光があった。なのに、いつしかその頬ははりを失い、骨が飛び出している。濁って焦点の合わない目はほとんどまぶたに覆われている。腕や脚の肉も、そげて筋張っている。簡単に折れそうだ。全身の皮膚はくすんだ茶褐色に変色し、深くひびわれ、表面がささくれている。開いたままの口は老木の「うろ」だ。座った姿勢から、動くこともない。
わたしのせいなのかもしれない。だけど、わたしからは「何もかもくれ」なんて、頼まなかった。住まいも、食事も、衣服も、彼の手によってわたしのもとに運ばれてきた。それが当たり前のことではないとは、そのときは知らなかった。
「いるだけでいい」と言っていた。だからそうした。与えられた場所にいた。そこでときどき、彼はわたしのからだをなでた。顔をうずめた。口づけた。わたしは、されるに任せるだけだった。ほんとうに、ただ、いるだけだ。何かするように要求されることはなかった。用意された食事を無理に食べなくてもよかったし、選ばれた服も気が乗らなければ着なくてよかった。ただ、「いること」がわたしの役目だった。
違う。ただ一度だけ、「すること」を求められたときがあった。彼が青ざめた顔でやってきて、黙ったままでいたからたずねたのだ。
「どうしたの」
彼は答えなかった。たずねたことなどもう忘れてしまった頃、その口を開いた。
「おまえの、おしっこが飲みたい」
わたしは応えなかった。そのまま月日が流れた。
思えば、あの日を起点に、彼が枯れてきた気がする。ゆっくりと、静かに。はじめのころは、話しかけたら、返事があった。そのうち、言葉は、からだのゆれや、まばたきになった。いまでは返ってくるものもなくなった。
彼は逝く。
食糧はつき、明かりは消え、夜は芯から冷えた。わたしも、かすかにしぼみかけていた。
ドアを叩く音がする。音は日増しに大きくなっていた。もう、この場所を去らなければならなかった。
彼のまぶたはすっかり閉じて、いまではふたつ並んだ小さな節にしか見えない。かつて腕だった枝にふれると、ささくれがわたしの指を刺した。指に唇を押しあてて吸い、とげを抜いた。
わたしは彼に向き直ると、下ばきをおろしてしゃがみこみ、放尿した。
*****
ひとが樹になる、そんな世でのお話です。よろしければ、こちらもぜひ。