掌編小説 ねむる芽
あるひとが樹になる。遠い将来、あるいは数か月後に。
こうしたことがわかるようになって、しばらく経つ。医学が進むにつれ、あるひとがどんな病気に罹りすいかがわかるようになった。それとともに、ひとから樹への移行しやすさもわかるようになってきた。なんの意味もないと考えられていた遺伝子の領域から、意味が読みとれるようになったという。
「移行」は近頃ぽつぽつとみられているらしいが、これまで聞かなかったのが不思議なくらいだ。もしかすると、行方不明とされる人のなかに、そのような例があったのかもしれない。
樹になる確率をみる技術は占いのようなものだ。「なる」と言われていても、ならないひともいるし、「ならない」と言われても絶対ではない。研究結果からある程度の傾向がわかるだけで。それに、型にはめたがるひとと、はまりたがるひとがいるだけだ。
自分がどうなのか知りたくないか、と聞かれたら。まったく関心がないわけではない。だけど、こわい。
「樹になるかもしれない」とふわっと考えている間は楽しい。どんな枝を伸ばし、花を咲かせ、実をつけるのだろう。受ける風の感触、浴びる日射しの温度、吸い上げる水の味。遊びにくる鳥や虫とのふれあい。
だけど、確実に「樹になる」としたらどうか。死の宣告と同じだ。いくらかたちを変えて生命がつづいていたとしても、人間としては終わるのだから。わたしはもう、自分の力ではどこへも行けないし、知りあいと会話をかわすこともできなくなる。
本当にそのときがきたら、ただそうなる。
自分のなかにねむる芽があるとしても、わたしはまだ知りたくない。
※ひとが樹になる、そんな世でのお話です。よろしければ、こちらもぜひ。