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自ずと少女ではなくなる

私たちは1年ごとに歳を必ず重ねてしまう。
生まれてから6年で小学校に入り12歳で中学校15歳で高等学校に進学するような社会の仕組みで生きている。
少女と言える年齢は実は18歳までだということを知っている人はどれだけ存在するのだろうか、年齢をとおりすぎても少女と評されたり自らを少女と表現したりその使い道は多岐に渡るし私自身もなかなか少女の自分と女性への切り替わりには苦労した。
少女は子供であることの証明とともにいびつな鎖でもあると思う。

高等学校へ上がる15歳から18歳までの年齢ではJKブランドなどと言われたりする。
JKとは女子高生の略であり、そこには生々しいだけの欲望と羨望が張り付いているように感じる。1番若く美しく、最低限ではあるが自由が保証された年齢。誰もが欲し、そして神聖で触れることさえ恐れてしまうような独特な宗教じみた集団とさえ、そのブランドから抜け出した私は思ってしまう。
それぐらい彼女たちは眩い光を日々放ち続けている。

私の撮影のアイデンティティのひとつとも言えるセーラー服。
これもまたそれを助長させるひとつで、汚れなき真っ白で清廉なセーラー服は私の歪みきって満たされなかった青春というものを酷く美しく塗り替え仕上げてくれたと思う。

そんなセーラー服の撮影も着用も私は卒業します。
自らの幕引きは私が引きたい、誰かに決められるのでもなく、やむを得ず辞めるのでもなく、自分が決めた期限をもって卒業をすることに決めました。
長い長い青春の補完は、完璧に成されたという訳です。

安易に決めたわけでは決してなく、酷く悩ましく苦しい時間の中で私は漸く出口を見つけた。
以前、一緒に撮影した方に言われた言葉がずっと鉛のように胸にのしかかっていた。
いつまで写真を撮るのか?いつまで女の子たちを追いかけるのか?年齢を考えるべきではないか?とその方は言われすごく悩んでいるように見えた。
そしてその言葉はブーメランになって、私のコンプレックスも当時につついた。
いつまで、と期限を決めるのは何故だろう。
だがしかし、時間は限りがあるからこそ美しいのであると知っている。

セーラー服を撮り始めた頃から、いつしか私はこのセーラー服から卒業する時が来るというのはどことなくわかっていた。ただ、タイミングだけはずっと分からなかった。なぜなら、自我の成長は時間をかけて育むしかないから。
何かを育てるにはすごい時間がかかる、植物だろうが動物だろうが人間だろうがそれは変わらない。
特に私は全ての行動が人より遅い方だと自負していた。すぐに色んなことに悩むし優柔不断。
その上、人見知りで内弁慶。
だから全てを時の流れと未来の自分に託すことにした、そして満を持してこの時がきたと確信した。
最初の頃、私はセーラー服という衣服に可能性を感じていた。服に詰まった青春を誰かに来てもらい体現する。それなのに近頃はセーラー服を着た女の子にしか注目をしていないこの変化に絶望した。変わってしまったと思った。それと同時に潮時を感じた。

私はもう少女ではないと。

回りくどい前置きと説明をしてしまったが、話は簡単で各SNSにも事前に通知したが、改めて考えと理由を述べたかった。

簡潔に言いましょう。
私は今年いっぱいでセーラー服の撮影も着用も卒業します。
ただし、仕事の依頼を貰えば撮影します。
仕事出ない限りは今後撮影することはないと言えましょう。

私は、私の手でこのセーラー服という混じり気のない青春を手放し卒業したい。
たったそれだけなのです。

今後もセーラー服の女の子たちを見かければ可愛いなと思うだろうし、きっと撮影意欲も多少は湧いてしまうだろうけどカメラを構えることはなくなる。


身も心も少女ではなくなった、それだけの話なのです。




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