エチオピア

心のどこかで、きっと、絶対的なそれ(しあわせとか、あこがれとか)の代名詞がみんなにみんなある気がする。

しあわせを、「しあわせ」という言葉を使わずに表現しろと言われた時に必ずこういう風にかいてしまうんだろうな、みたいな。自分の中でのしあわせとかあこがれの比喩みたいなものがある。好きなワード、フレーズとも言える。あれ、私いつもこの言葉つかってんな、とか、めちゃくちゃある。

それは無意識に絶対的で、ある意味呪いだ。「呪い」という言葉も多用する言葉のひとつで恥ずかしい。そのままの意味では呪いでは無いのだけれど、そう、なんていうか、説明がしづらいのだけれど、呪い。感覚的な話なので誤用とか言われてもしらね~‼️とはなる。

薄々自分でも気がついていたけれど、私は本当に「知らない街」というものが好きだ。そのものとしても、ワードとしても、概念としても好きだ。そこにいる自分のことも好きなんだと思う。
様々な感情の比喩として、知らない街を多用してしまいがちだ。そこに蔓延る記憶なんかも関係している気はする。

そう、私は結局記憶の話になってしまう。記憶というものが私の思考、創作、言語にとって如何に幅を利かせてるかが分かってしまう。

しあわせな人間、しあわせな生活。満ち足りている。をえがくとき、私は必ずと言っていいほど「ただいま」と「おかえり」を使ってしまう。おもしろいほどそうだ。私にとって、「ただいま」と「おかえり」は満ち足りていて豊かな様なのだと思う。きっとこれは幼少期から今までの記憶により成り立っているのだろう。

再三言ってしまうのだが、あくまでも私の思考やなんやかんや、私という人間の根底にあるしあわせは、「おいしい」なのだとおもう。

しあわせって、なに? ときかれたら、「おいしい」と答えてしまうと思う。(本当はもっといっぱいあるのだけれども)

食い意地が張ってる訳でもなく(はっては、いる)食べることがすきだからでもなく、シンプルにしあわせっておいしいことだなと思う。

多分だけれども、私は「食」というコンテンツがかなりすきだ。概念として(また概念の話してる)
他人の食の話が大好きだし、しかもちょっと偏った食の話

ex:人にはあまり言えない食べ方だったり、幼少期よく食べたものだったり、その家独自の創作料理だったり、ご褒美ご飯の話とか、一人暮らしの時よく食べてたものとか、お母さんが作るご飯、お父さんがつくるご飯とか。

を聞くのが大好きだ。好きな人間の食にまつわるエトセトラ、延々と聞けてしまう。
偏食という意味での偏った食事という意味ではないのだけれども、まあ偏食の話も面白いからいい。
だから、というか、食エッセイを読むのがかなりすきだ。小川糸さんとか阿川佐和子さん、平松洋子さんとかのは最高。ほんとうに、さいこうなのでぜひ

先の話にもどると、「おかえり」と「ただいま」もその背後に食が潜んでいるのだと思う。私にとってはの話だから、どうしようも無いのだけれど。

人によってかわってくるしあわせの形っておもしろいなぁ。そういうところが作品やら思考にでてしまうのも、おもしろいな。シリ切れトンボで終わり。

ぜひ、今度私にあった時は偏った食の話をおきかせください。


2020.5.24


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