なぜ新しい写真表現を絶やしたくないのか
写真大国・ニッポン
写真新人賞「夜明け前|New Photography Award」を立ち上げ、新たな写真表現を求める理由について、また別の角度から述べてみたくおもいます。
わたしたちが写真にフォーカスするのは、「写真大国」といえるこの日本で、写真による新しい表現の灯を絶やさないようにすることが、たいへん重要だと考えるゆえです。
ここでは日本社会と写真の特殊な関係性について、眺めてみることにしましょう。
日本人の写真好きは際立っています。どこにいても何をしていたって、見渡せば写真ばかりというのが日本の社会のありようです。世界一流通量の多い新聞や雑誌など、出版物のページをぎっしり埋めているのは膨大な写真の群れです。スマホ画面内のアプリやコンテンツにしたって、事情はまったく同じこと。
外に出てみても、道中は広告看板の写真に囲まれ、飲食店に入ればメニューは写真や画像付き。写真を一枚も目にせず過ごすなんてあり得ません。日本人の日常は、写真の洪水のなかを泳ぎまわっているようなものです。
撮る行為も同様で、生活のあらゆる場面はいまや、スマホですみやかに撮影されていきます。「一億総フォトグラファー」状態にあるというのは、まったくおおげさな言い方ではありませんね。
経済における存在感も、戦後一貫して大きかったものです。キヤノン、ニコン、フジフィルム……、世界的なカメラ・フィルムメーカーは日本に集中しており、国内外に製品を供給してきました。世界のどの観光地へ出向いても、また報道の現場でも、人が手にしているカメラはたいていが日本製でした。
老若男女を問わず、写真を趣味とする人も、いまだたくさんいますね。
「写真好きにあらずんば日本人にあらず」と言えそうなほどの状況が、ずっと続いているのです。
いつだって日本には写真が必要だ
世界屈指の「写真大国」となるに至った理由を、何かひとつに特定できるわけではありませんが、写真の特性が日本人の心性にぴったり合っていることは、総体的に指摘できそうです。
日本文化を読み解くキーワードとしてよく持ち出される「はかなさ」や「もののあはれ」が、写真にはもともと含まれています。
シャッターを押しさえすれば、刻々と過ぎ去る瞬間を留められるのが写真なのですが、それゆえどんな画面もひと目見ると、ものごとはいつもすべて移りゆくのだということを強く意識させられてしまいますから。
写真は基本的にこの瞬間、撮り手の目の前にあるものを撮るよりほかありません。つねに「いま、ここ」のことを扱っています。その点で俳句や短歌、茶事に生花など、日本文化の基底を成してきたものごとと、思想を同じくしています。
写真は日本文化を正統に継承する存在であるともいえましょう。これだけ広まり皆から愛されるのも当然のこととみなせます。
日本文化が長らく培ってきた「いま、ここ」重視の心性にぴたりと合致し、圧倒的な支持と裾野の広さを得るに至っているのが、日本の写真表現の位置なのだと考えられます。こうした状況は、日本における写真表現の豊かさと層の厚さに直接反映されているとおもえます。
これほど恵まれた歴史的・風土的なベースがあるからこそ、独創的で多様な写真表現者が日本では続々と現れ出ているのです。
日本の社会と文化の充実に欠かすことのできない写真表現は、今後も守り育て、盛り立てていかねばなりません。
たとえば写真賞という場を設け、新しい才能が伸びていく機会と環境を整えることは、ぜひとも必要な行動であると、わたしたちは考えています。