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幽霊


私はもうすぐ死ぬ。
心音が遠のく。
握られた手は強ばり、声は遠くなる。
この世に結び付けられていた糸がプツリと音を立てて切れ、身体はあの世へと投げ出される。

宙に浮いた身体、魂。

私は死んで、きっと幽霊になって、49日の間、この世をさまようのだ。
その間、きっと悲しむ両親や妹を眺めて、胸を締め付けられるような思いに駆られるのだろう。


……と思っていた彼女だったが、そんなことは忘れて、知らぬうちに塵となり無となり、知らぬうちに転生した。
とある若夫婦の、長男となった。
健康に、すくすくと成長している。

めでたしめでたし。

「死ぬって、こういうことなんじゃない?」
「は?」

友哉の言葉に、俺は首を傾げる。
今は昼休み。
満足気な顔面に、キラキラとした目をくっつけている友哉に対し、俺はもう一度、牛乳を飲み干してから、丁寧にきちんと「は?」と返す。
何がめでたし?

「だから長谷!死ぬって、こういうことなんだよ!」


藤沢友哉とは幼なじみで、小さい頃から今までずっと一緒にいる。

こいつは馬鹿だ。大真面目な馬鹿だ。
定期テストの順位を下から数えた方が早いという好成績。
大真面目に勉強した結果のこの成績だ。授業は毎回出ているし、課題も毎回忘れずに提出する。
テスト1ヶ月前には復習を始め、通学時間を活用して英単語を覚える。
なのに、毎回驚くほどの点数を取る。不思議だ。ポンコツだ。

そしてこいつは大真面目かつ不思議くんなので、スピリチュアルだとか、前世だとか、ちょっとよくわからない本を読んでは、うーんうーんと毎日それについて俺に問うてくる。
さらにそれを教室で吹聴しては、日々黒歴史を1つ2つと増やす作業に徹しているのだ。
つまり、底抜けの阿呆である。
なのに、無駄にポジティブなのが羨ましい限りだ。

ついに、そしてついに今日。
友哉は自作で短編小説を書いてきたと言うのだ。

読んでほしいと言うので、俺は丁重に断った。
結果、目の前で音読された。
耳障りである。
そして、短編小説と言うには短すぎる、先の謎の文章を読み上げられたのである。

「お前、バカのくせによく49日の知識があったな。」
「いや、そこじゃないって、長谷。俺は気づいたんだ!」
「あー、昼休みが終わっちまうー…」
「興味もてお前!」

鬱陶しいなあ。
どうせ聞く耳を持ってなくても、こいつは毎回俺の耳をつまんで、念仏を叫ぶような所業をしてくる。ああ、鬱陶しいなあ。

「いいか長谷。幽霊には、ゴカンがない!」
「…………ゴカン?」
「五感。」
「…………………………」
「……聞いてる?南無南無南無南無…」
「お前やめろ眠くなる」

幽霊には、五感がない。
そんなわかりきったことをこいつは言ってくる。
そりゃ、身体から魂が離れているんだから、何も感じるわけないだろう。

「だからさ、幽霊は何も感じないし、何も考えられない。そう思うと、幽霊なんて怖くなくなるだろ?」
「じゃあ、文化祭はお化け屋敷にも行こうか。」
「嫌だ。」
「なんでだ。」
「とにかく、死ぬと何も感じないし、何も考えられない。身体も脳みそもないからな。俺にしてはすごいことに気がついただろ!」
「そうだな。そろそろ授業が始まるから行こう。」

藤沢と幽霊の話なんてしているのがキモいので、俺はさっさと空の牛乳パックを捨てた。
藤沢はまだギャーギャー言っている。鬱陶しい。
とりあえず、聴覚だけ一旦封じたくなる衝動に駆られた。
俺はなんでこいつと仲がいいんだっけ。

5限。
藤沢の念仏のせいか、俺は授業中にうたた寝してしまった。
目を覚ますと、午後の気だるげな雰囲気と先生の声、ノートを取る音と紙の音、カーテンから差し込む日差しのせいで、思わず二度寝しそうになった。
夢の余韻に包まれたまま、俺は夢の中の女性に別れを告げた。



「幽霊には五感がない、か。」
「長谷、ついに俺の話に興味を持ったか?」

放課後、藤沢と帰る通学路はなんて虚しいのだろう。
どうせなら、可愛い彼女(存在しない)と帰宅したいものだ。

夢の中に出てきた女性。
あれは、未来の彼女か?それとも。


「五感がないなんてつまらねえよな。」
「…………」
「俺、死んでも幽霊になりたくねえわ。」
「………は?」

藤沢の戯言をまともに聞いていると、頭が痛くなってくる。
痛み。幽霊は痛みも感じないのだろうか。
死ぬ時って、どこか痛いのだろうか。
それとも、痛みが引いていく感覚なのだろうか。

あの女性は。
確か、痛みから解放されていた。それで……

まるで自分が現実世界で体験したかのように、痛みが引いて、楽になる感覚を思い出し、俺は少し身震いした。
熱烈な痛みだった気がする。
でも、何か信念を持って、彼女は痛みに耐えて、俺は、痛みに、耐えて………俺は、俺は?

うんうん唸って考えていたところ、藤沢に笑われたので、俺は考えるのをやめた。
まあいいや、今は五感がちゃんと働いていても、少しくらい痛みがあっても悪くない。



私はもうすぐ死ぬ。
きっと、この子を生んで、すぐ死んでしまうだろう。
下手したら、この子も死産になるかもしれない。
いや。…嫌だ。この子だけは。
この子だけは生きてほしい。
お願い。

もし私が幽霊になったら。
この子が生まれた後の49日だけ、この子とこの子の父親の傍で寄り添って、触れられない悲しみと、少しずつこの子が成長する喜びを味わって、それで…。

私は身体が弱いから、念の為に、万が一のことがあった時のために、先にこの子に名前をつけておいた。つけておいて良かった。
この子の名前は、「龍之介」。


龍之介には生きていてほしい。

身体から痛みが引いていく。
龍之介の産声が聞こえない。
いや、お願いだから、声を上げて泣いて。
生きて。龍之介。
どんなことがあっても。

とうとう、全ての感覚を失い、龍之介の母親の視覚は、彼女の世界はブラックアウトした。
さようなら、世界。

……と思っていた彼女だったが、そんなことは忘れて、知らぬうちに塵となり無となり、知らぬうちに転生した。
その間、わずか数秒。

数秒後、彼女の息子、「長谷龍之介」は無事に産声を上げた。もちろん、元気な男の子だ。


彼の母親は、無事に生まれ変わったのである。


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