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バヤンからバリ・ヒンドゥー都市チャクラヌガラへ

学生たちは朝から周辺観光というか視察。南の少し山に登ったところにあるプールに赴いた後、谷筋の違うスナルへ。スナルはリンジャに山に登る外国人たちが滞在するホテルやゲストハウスがいくつかあり、トレッキングガイドとしてバヤン出身の人たちも何人か働いているエリアである。リンジャニ山からの豊かな水と急峻な地形から、何ヶ所か規模の大きな滝を見ることができる。滝を見に行った後、スナルの伝統村に行ったと思う。ウィジとギナがそれぞれバイクの後ろに学生を乗せて連れて行ってくれた。

黄さんは、昨日から始めた西バヤンのブルガ・テラス利用調査を朝から実施。5時から13時まで毎時間ブルガを巡りながらブルガ利用の時間的変化の調査。

15時にバヤンを出てマタラムへ向かった。翌日の飛行機のことを考えて、前日のうちにマタラムについておきたかったのである。

まだ明るいうちにホテルに着いたので、少しまちを歩くことにした。ホテルは行きと同じパラパホテル。チャクラヌガラの西端のパラパ通り沿いのホテルである。ホテルから出てキャッシュコーナーを探してマタラムモールに向かい北から抜け、東に歩いた。

チャクラヌガラの実像を知ってもらうために、限られた時間で何を見せるのが良いかをぼんやりと考えながら歩いた。カラン(住区)ごとにある寺院に、歩いている途中で出会えれば、中に入れば少なくともバヤンとはまったく異なる建築や空間を感じてもらうことができるだろうと思いながら寺院を探したが、近くにはなく、結局プラ・メルまで行くことにした。

歩きながら、何となく計画的な都市であることは感じられたと思うが、グリッド都市であることを共有するために、Googleの地図を見せた。一目瞭然である。1700年代はじめにバリのカランガセム王国がロンボク征服を目論み、ロンボク島の西側のこの地に植民を計画するとともに、実際にバリから人々を住まわせ、33という数を元に都市計画を実施した、その表れが今歩いているグリッド状の街区であり、その中心に、ある意味世界の中心として位置付けられたのがプラ・メルである。古代インドの世界観では須弥山(メール山)に33の神が住むとされているのである。

プラ・メルでは入り口のところにいたガイドに15万ルピアも請求されたが、ごねることなく渡すことにした。腰に紐を巻かされ、中に入った。彼の口から33という数の話や、33のコミュニティの存在、それぞれの祠の存在、年に一度開催される祭礼では各コミュニティからプラ・メルへの参拝が行われることが説明された。いささか図式的ではなるが33という宇宙論的な数字をもとに1700年代始めにこの都市が計画されたことがわかる。

そのことにどういう意味があるのか?計画のオルタナティブである。近代都市計画理論を所与のものとして生きる我々は、近代都市計画が行き詰まりを見せていても、その枠組みから出られずにいる。我々にとって必要なのは、もう一つの計画のあり方であり、近代都市計画とは異なる思考基盤にもとづく計画原理である。

インドネシアからしても、彼らがよってたつ都市の計画理論は限られている。歴史的な都市計画の蓄積は必ずしも多くないのである。例えば日本であれば、平城京・平安京のグリッド都市の計画があったり、中世の寺内町の計画があったり、近世の城下町の豊富な計画事例がある。それぞれ、前近代の都市計画であり、脱近代都市計画のためのオルタナティブとして援用可能とも言える。ではインドネシアではどうか?17世紀以降のオランダの植民地支配の中での近代都市計画、またそれとある程度地続きな現代都市計画が現在の都市を大きく規定していると言える。それ以外となると、ジャワ都市あるいはバリ・ヒンドゥーの都市が挙げられるが、いずれも住区も含めて明確に都市計画にもとづく事例はないと言っていい。そんな背景の中で、チャクラヌガラの都市計画的な研究の意義は大きいと言える。

散策の後は、香港飯店で、ビールを飲みながら、学生たちとこの短い旅の総括をして旅を終えた。240825

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