見出し画像

■ 20230804/おもろい、だけ

朝、喫茶店でプロットを練る。二本ほど方向性が決まり、わくわくした。昼前に帰宅し、塩焼きそばとハヤシカレーを作り置きする。

夕方、大学時代の後輩二人と「君たちはどう生きるか」を鑑賞。わたしは公開初日にひとりで見に行ったので二回目だったが、退屈することなく最後まで鑑賞できた。児童文学、特に、小学生の頃に好んで読んでいた岡田淳の冒険ものの世界にのめりこんでいたときと同じような高揚感を「君たちはどう生きるか」では味わえる。ただどうしても難解なところもあり、鑑賞後は考察に盛り上がった。

しかし、思う。果たして、すべてに意味を見出さなければ、見たと言えないのだろうか。鑑賞時間に、支払ったお金に、対価を見出したくて、かかったコストの分だけ、その作品に触れたことは有意義だったと思うことに必死になってしまう。自分含め、受け手に対して、すべての作品に意味がなければならない、意味を見つけなければいけないと思っているのではないかと感じることがままある。もちろん、意味付けはとても楽しいものではあるのだが。

小説でも、世の中に何らかの問題提起をしている作品がなんとなく持て囃され、いつだってブームになっているような気がする。おもろい、だけでもいいやろ!と、時々、わめきたくなる。それだから、わたしにとっておもろいだけの宮島未奈の「成瀬は天下を取りにいく」は、救世主・キリストのようであったのだ。という話を、わたしと後輩ふたりのホームグラウンドにある大衆居酒屋でした。

ふたつの居酒屋をはしごし、後輩ふたりと近況報告をし合い、なんというか、ひとにはひとの地獄があるということを、ひとの知らない地獄を、わたしは絶対に舐めないでいたいと思ったし、しばらくひとと言葉を交わし合うことはしないでいいなと思った。いま自分の身体もこころもあまりそれを求めていないような気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?