#2【丘の上の社宅団地のお話】(昭和50年代)大きな土手が楽しい遊び場
団地には、たくさんの子ども達がいました。
1号棟で30人近くいたと思います。
4階建てで、階段が3本。
階段1本につき8世帯。
カケル3、で全24世帯。(全室が埋まっていたとして)
1世帯につき2人のお子さん達がいたとして
48人。
そんなに多いわけないなと、
ざっくり30人としました。
いつも一緒に連れ立って遊んでいた子ども達は、
7〜10人くらい。年齢も様々でした。
私の家は、
棟の一番西の端の階段だったので、
団地の西半分に住む子ども達との関わりが多かったように思います。
特に仲が良かったのは、2歳年上の女の子。
さえこちゃん(仮名)。
私の家の向かい側の号室に住んでいました。
本当にいつも一緒に遊んでいました。
さえこちゃんは、
一言で言うと「冒険家」。
どこにでも行き、
誰とでも(野良犬とでも)
すぐに仲良くなれる。
私は一人っ子でしたので、
さえこちゃんは
憧れの大好きなお姉ちゃんでした。
さえこちゃんには5歳ほど歳の離れたお兄ちゃんがいました。
さえこちゃんのお兄ちゃんとは、あまり一緒に遊んだ記憶がありません。
背が高くて、色が黒くて、たまに出会うと少し笑ってくれてたな、
そんな印象です。
多分、少年たちは少年たちで群れていたので、
また違った遊びの世界があったのだと思います。
こじんまりとした団地でしたが、
4・5歳の子どもには、とても大きな建物でした。
敷地の東端には、団地のへの入り口がありましたので、
団地の前を東西に行き来するのですが、
その際に感じていた
自分と団地の大きさの比率を
大人の感覚で表現すると、
港に停泊している豪華客船のそばで遊んでいる感覚に近かったです。
南側は、全戸ベランダで、
北側が各戸階段出入り口でした。
団地前(北側)は、アスファルトのちょっとした広場。
東西に横一列に並ぶマイカーたち。
このアスファルトの広場は、
いつも日陰だった印象です。
団地の西側に、小さな公園がありました。
私の家の階段から出ると直ぐにありました。
公園も含めて団地の敷地西側の終わりは
うすみどり色のフェンスで区切られていました。
このフェンスは、割と簡単に超えることができました。
高い所は勇気を出してよじ登ったり、
低い所はまたいで乗り越えたと思います。
もしかしたら、抜け穴があったかも?
フェンスの先は、
45度くらいの傾斜の土手が下っていました。
この土手は広くて、
幅も200メートル近くあったと思います。
この土手こそ、
アドベンチャーワ-ルド!
傾斜が割とあって、
地面は砂地に近かったと思うので
小さな子どもなら、
転がり落ちそうでしたが
実際には大丈夫でした。
遊び慣れて、学年が上がってくると
土手を駆け降りていました。
駆け降りることができるのが
カッコよくて
嬉しかったなぁ。
転んだこともやっぱりありました。
土手には、夏場はふさふさした緑の草、
ススキの葉がいっぱいで
まるでジャングルでした。
草は目の高さくらいまでありました。
そして、すごかったのが
初夏から秋にかけての
「きりぎりす」や「ばった」
たまに「まつむし」です。
うじゃうじゃいました。
(苦手な方すみません)
私は小学1年生の終わりに
この団地から引っ越しています。
隣の校区に変わりました。
そこも自然が豊かな所で
きりぎりすやバッタも沢山見ました。
中学生の時に
関西(割と都会)に引っ越しましたが、
それからは
本物のきりぎりすを目にすることは
ほとんどありませんでした。
虫取りに土手に行くと、
きりぎりすが勝手に
靴にジャンプしてきてとまるのです。
きりぎりすやバッタは
網など使わずに
素手で捕まえていました。
両手にきりぎりす状態です。
後ろ足をまとめて持ち
逃げないように気を付けて、
まじまじとずっと見ていました。
きりぎりすのお腹、お尻、足のとげとげ
胸、羽、顔、目、口、
全部を飽きるまで。
オスメスの判別もできました。
きりぎりすにも、種類や大きさの違いが
ありました。
たまに、すごく大きな、主のような
きりぎりすを見つけて
皆んなで大騒ぎしていました。
捕まえたのかなぁ、
よく覚えていませんが、
特大のきりぎりすは
絶対に存在しました!
虫が苦手な方には、
本当に申し訳ありません。
こちらの団地のお話しは、
このような生き物の
お話しが多めです。
また、よろしければ
次回からも読んでいただけたら幸いです。
ここまで読んでいただき
ありがとうございました。