感謝が出来ない
数年前にサウナブームがきた。
僕はそのブームでサウナに行くようになった人間だ。
整うという感覚なのか分からないが、すっきりして夜ぐっすり眠れるからとても気に入っている。全裸で外気浴をしていると、とてもすっきりした気持ちになってきて、ウトウトしてくるのも好きだ。
そんなウトウトしているとき、なぜか哲学的?なことをよく考えてしまう。今日のテーマは「感謝」だ。
最近になって気が付いたけど、ぼくはどうやら感謝が出来てないような気がする。当たり前に思っていると感謝ができないと言われるが、当たり前にしすぎているようなきがする。
家族や仕事、友人がいること、息が出来ること、光があること、そういう壮大なことでなく、なにかもっと低俗的で危機的なレベルだ。
今日あったことでいうと、待ち合わせ場所に早く着いた友人が僕の好きなものをすでに注文してある、とラインが来た。
おーなんて素敵なことをするんだ。ありがてぇー、とラインをして、席に着いてから「有難う」といったものの話をして盛り上がり、飲み終わる頃にはそんな友人の気遣いを忘れていた。
別れてから「はっ」と気が付き、お礼のラインをしたのだけれども、よく考えたら友人の話を聞くよりも自分のどうでも良い話をしてしまったり、まったく気が利いてなかった時間を過ごしてしまった。
自分にがっかりしながら目を閉じてウトウトしていると、目線を感じた。
ふと目をあけると、寝そべって身体を捻りこちらにチ〇コを見せるようにしているオジサンの姿があった。オジサンとチ〇コ、両方と目が合った気がしたが、とにかく怖くてその場を去った。
全裸でウトウト外気浴が出来ることは当たり前じゃないんだと、感謝しなければいけないと思いながらも、もう少しゆっくりしたかったなぁとも複雑な心境である。
感謝とは何か、哲学である。
ヘッダー画像は、こじょりん(小城徹也)さん https://note.com/brandkojo/ をお借りしました
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