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#006 念願の公務員になるも...激務部署配属で身体に不調を来した話

今回は念願の地元の公務員になるも激務部署へ配属され身体に不調を来したときのことを書いてみようと思います。

この経験を振り返ることで自分を見つめ直し、それを糧に次のステップに進みたいという思いから書くことにしました。

配属先のこと

紆余曲折ありながらもなんとか内定をいただけた私は一県庁職員として働けることに感謝していました。そして恩返しをしたいという気持ちで迎えた社会人の始まりでした。

しかし社会人1年目激務部署からスタートしたことで、その気持ちはあっという間に消え去りました。

社会人が始まると同時に朝8時前に着席20時以降に退庁するような毎日でした。勤めて1週間もしない内に実力不足を感じました。自分にはキャパオーバーだ、仕事を投げ出せるものなら投げ出したい、誰かに代わってほしいとも思いました。

社会人になってまもない頃は、質問事項があっても誰に聞いたら良いか分かりませんでした。配属先では属人化された業務が大半を占めていましたが、それを知る由もない私は、その時たまたま近くに座っていたというだけの理由で隣席の先輩に聞きました。…その結果「俺に聞くなよ」と言われてしまいました。
また社会人になって初めての週末を迎えようとしていた金曜日、私の担当業務の締切が迫っているということで先輩職員に翌日も(休日)出勤するように言われたことがありました。

直属の上司の机にはいつも決裁待ちなどの書類が堆く積まれており会議などで離席することも多く、とにかく忙しそうでした。上司に何か相談したり質問したりすることがためらわれるような雰囲気がありました。
前任者が違う地域へ異動したため、ちょっとした疑問をすぐに聞けるような状況ではなかったことも相まって孤独感を感じた始まりでした。

勤めてからひと月もしない内に分からないことだらけの私でも、ここには協力体制などないも同然で属人化された業務をそれぞれがこなしているということが分かりました。そのくらい周りの職員が各々の抱えている業務で忙しそうなのが目に見える状況でした。
周りも業務過多で余裕がないと察するとともに社会人1年目ながら周りに頼ってはいけない、早く一人前にならなければ、自分の担当業務なんだからキャパオーバーだとしても自分でなんとかしなければという、今にして思えば不要ともいえる使命感に駆られていました。

社会人になって、ふた月が過ぎた頃から家に帰るとよく涙が出てくるようになりました。背負うもの(背負わなければと勘違いしていたもの)の多さに押しつぶされそうでした。仕事が憂鬱で憂鬱で仕方ないのに朝が来れば起きて職場に着けば平気な振りをしていました。

担当業務のこと

入庁するまでは実務の明確なイメージを持てていなかったのですが、いざ担当してみて分かったことは国や市町村の間を取次ぐ業務、県の代表を意識する業務、時の政権やその制度変更の影響で翻弄される業務、各種イベントの開催準備、出張、電話・来客対応、それ以外の庶務など本当に多岐にわたっているということでした。

とある支給業務・それに付随する業務

担当業務の一つで大きなウエイトを占めていたのが、とある支給業務とそれに付随する業務でした。
どうしてそれが大きなウエイトを占めていたのかというと「制度変更を伴う業務」だったからです。
その制度自体は1970年代から長らく続いてきた歴史のあるものでしたが、私が入庁する1年前から制度変更が始まり、社会人になって半年経った頃と社会人2年目の年度始め、と立て続けに制度変更がありました。
法改正を伴い、制度の名称自体の変更やそもそもの対象基準の見直し、支給年齢の拡張、支給額の変更など、内容がガラッと変わりました。スケールの大きい変更でこれまでとはスケジュールやツールが変わったほか関係各所への周知や調査、新たな予算組みなど新たに発生する業務も膨大でした。

一度の変更でも煩雑でヘビーな内容であるにも関わらず、それが2回も重なり心身ともに疲弊しました。

ちなみに従来は年度当初に山場を迎え、その後は粛々と進められるような業務でしたが、私が担当した時は山場が何回もあり年中バタバタしている印象でした。

もう一人同業務担当の大先輩職員がいたのですが実務はほとんどせず私が質問した時に答えたりするというポジションでした。中にはその方に質問しても分からないこともあり国に確認してはその回答を伝えたり、その方(もしくは役職者)から必要な資料を何パターンも作るよう指示されることも多く、内外問わず各方面からの依頼に辟易していました。
この業務に関わらず全てが手探りの中、前例通りに進まない状況で同じ業務を手分けして担当する人がいない、同じ立場で悩みを共有できる人がいない、心細い、落ち着かない毎日でした。
率直なところ、その業務だけで例年の2倍以上のボリューム感で難易度もそれなりに高かったように思います。

制度変更に伴い市町村担当者からの質問も頻繁にありました。調べて折り返すことが多かったのでパソコンの周りが付箋だらけになりました。聞きなれない用語や込み入った案件など分からないことを来る日も来る日も立て続けに聞かれるストレスで頭がおかしくなりそうでした。
そして隣席の先輩からは、「そんなにいっぱい付箋貼ったらどれが大事かわからなくなるでしょ」と咎められたこともありました。

日中はほとんど電話対応や来客対応、メール対応など突発的に発生する質問・相談対応に追われていました。そんな中でも容赦なく内外から新たな依頼事項が届きやるべきことが溜まっていくばかりでした。それに焦りを感じながらも日中はそれに取り掛かる余裕はありませんでした。とにかく忙殺されていました。

制度変更に伴う支給業務だけでも手一杯でしたが、それに伴う付随業務も膨大でした。
市町村で使用しているシステム改修費や新たに発生する市町村分と県分それぞれの事務経費のとりまとめ、国主催の説明会への参加、それを受けての市町村向け説明会の開催準備など。
市町村担当者の中には何年か実務を経験されている方もいてその担当者のほうが私より断然、背景含め実務に詳しかったです。そういう方々からの質問は中身が濃く内容を理解するのに苦労しました。
国から送付された想定質問があったのですが、そこに書いていないことや解釈に迷うこともあり国に直接電話で確認しその結果を市町村担当者に伝えることもありました。ようやく得た回答を市町村担当者に伝えると、そこからまた私では思いつかない質問が生まれ、それをまた国に確認したりと取り次ぎ業務で日中が終わることも珍しくありませんでした。
不慣れな自分が間に立ってやりとりする大変さがありました。市町村担当者の方は、よく愛想をつかさず対応してくれていたなと...本当にありがたく思っています。

それ以外の業務

前任者の担当業務全てと、前任者以外の職員の担当業務などもいくつか引き受けていました。これほど多忙な部署であっても前年度から一人、人員削減がなされ、その業務も既存職員で業務分担する必要があったからです。

随時受付中の電話・来客対応、臨時職員・非常勤職員さんの給与計算、課内の源泉徴収票作成発送、各種イベントの準備、冊子作成・封入・発送などを担当していましたが、どれも片手間ではできないものばかりでした。

恥ずかしながらまだ社会の仕組みを知らなかったので任せられても年末調整や源泉徴収票とは何かを調べたり、課内で取り扱っている業務が世間的には有名な制度だったとしてもそれを調べたりするところからのスタートでした。前提知識がないことで何をするにも一つひとつ時間がかかりました。

課内のとりまとめ業務をした際には、本当にこれで全てなのか、取りこぼしはないだろうかという種類の不安も感じてもいました。
公務員の事務ミスのニュースを見る度に、自分の時は偶々ミスが見つからなかっただけなのではないか、と未だに思うことがあります。

無理をして出勤していた頃のこと

  1. いつも繁忙期 / ミスが許されない緊張感
    余裕のない日々で提出物は毎回のように締切間際もしくは数日遅れで提出していました。国の担当者からは全国で私のところだけ未提出ですよと、催促されたこともありました。
    業務の性質上、絶対にミスが許されないことに加え締切に追われ時間的猶予もなかったため二度手間になることを避けたいという気持ちからも絶対に失敗できない緊張感がありました。
    社会人1年目なので失敗して当たり前なのですが当時はそう思っていました。

  2. 協力体制がない / 同じ悩みを共有できる人がいなかった
    実務の引継ぎはわずか1日で終わり翌日からは薄いマニュアルや前年度の資料などを参考に進める形でした。周りに同じ実務をしている人がいなかったので同じ目線で悩みを共有できる人がいなく心細さを感じていました。
    当時の配属先では基本的に、年度当初の業務分担を見直すことはありませんでした。私が大変な時でも具体的な助けはなく、周りからは「そこは修行席だからねぇ」と言われるような環境でした。当時の私は「大変そうだけどそこは修行席だから一人で頑張ってね」というニュアンスで受け取り、突き放されている感じを受けました。私のとらえ方の問題もあるのですが、そういった一つ一つのことが積み重なって協力体制が全く見えない職場環境だなと感じました。それが一番つらかったです。

    また、決裁の過程で多くの職員が確認印を押すものの、チェック体制が整っているとは限りませんでした。さすがに同業務担当の大先輩職員は私が起案した書類などをチェックしていましたが上司含めそれ以外の職員は押印するだけで、そういったチェック機能の役割を担っていませんでした。
    むしろ起案して初めて上司がその業務の存在を認識していることも多く、自分一人でスケジュール管理をして進めていく業務が大多数でした。周りの職員も自分の業務に専念している状況で実務レベルで助け合うような雰囲気を感じませんでした。先の見えない不安を抱えていました。

  3. 手探りで進める見通しの立たない業務が多かった
    *とりまとめ業務
    担当していた支給業務は市町村が把握している「人数」を基にそれに応じた手当を支給する業務でした。国と県分それぞれについて書類と電子データでのとりまとめが必要でした。
    従来、電子データについては国分は国提供のシステムを使ってとりまとめを行っていましたが制度変更に伴いそのシステムが使えなくなりExcel様式などでの対応を余儀なくされました。
    県分は従来からExcel様式などを使っていましたが、その様式も新たに変更しなければなりませんでした。
    環境的にも知識的にも不慣れな中、Excel様式の関数式変更やword文書などでの新たな様式作成、市町村担当者からのメール・ファックス・郵送での提出物のとりまとめなどを行わなければならず管理に苦労しました。

    中でも不安だったのは県分のExcel様式の変更です。
    市町村担当者が該当箇所に算定根拠となる「人数」を入力すると自動で県が負担する金額まで表示される関数式を組み込んだExcel様式を作成しました。
    万が一その関数式に誤りがあれば金額も変わってしまうので、かなり神経を使いました。依頼前に何度も確認したものの不安で不安で仕方がありませんでした。

    *市町村担当者などへの周知業務
    国から送付される膨大な関係通知を市町村担当者へ送付するのですが、当時は内容にとりあえず目を通したくらいの感覚で、取り急ぎ送るスピード感でした。
    送付すると市町村担当者から立て続けに様々な質問がありました。知識不足で質問されても分からないことばかりでした。やっと前提条件を理解したところで解釈に悩むことや調べ方自体も分からないことが多く無駄に時間だけが経過していくこともありました。
    これだけ大変だったにも関らず...当時はそもそも周知内容について正確に内容を把握できていない自分が悪いんだと自責の念に駆られていました。最後まで自分で解決しなくてはと同業務担当の大先輩職員に電話を代わってもらったり分担をお願いしたりすることもありませんでした。
    実務だけでも大変だったので電話対応と手分けするなど配慮してもらえるように頼むべきだったと思っています。

  4. お金(税金)の使われ方が腑に落ちなかった
    時の政権の影響でこれほどにも翻弄されるのかということを実感したとともに関係するシステム改修など巨額のお金(税金)が動く状況を目の当たりにし、驚いたことを今でも覚えています。私が在籍していたわずか3年の間、政権の移り変わりや制度変更で関係システムなどの改修が頻繁になされたほか変更に関わる諸経費も目を見張るほどかかり、お金(税金)の使われ方に対して懐疑的になりました。そんな時でも自分の立場ではどうすることもできず、やり切れない気持ちを抱えました。

  5. 頼まれた業務を断らずに引き受けていた
    今振り返れば当時の業務量・業務内容ともに「フォロー体制が整っていない環境下」で、社会人1年目に任せること自体間違っていたと思います。ですが当時の私は比較する材料がなく割り当てられるままに業務を引き受けていました。
    年間で決まっている業務以外にも上司が追加依頼する業務があったのですが、その時の私は自分に頼むということは他の職員はもっと忙しいのかな...自分としては今こんなに余裕がないと思っているけど相対的に見たらまだまだ業務量が少ないほうなのかな...と考えて引き受けていました。
    しかし今だったら間違いなく断っている案件だと思います。社会人1年目は自分の中で比べる要素が少ないからこそ無理をしてしまう人もいると思うので特に周りの先輩や上司が気にかけるべきだと思いました。上司の仕事で一番重要なことはマネジメントだと確信しています。

  6. 弱音をはけなかった
    当時はかなり追い詰められていたのに...心配をかけてはいけない、弱い自分を見せられない、できない自分が悪い、という気持ちから悩みを話すことができませんでした。
    当時、家族の中で定職に就いていたのが自分だけだったので経済的に親に頼れず自分が働き続けなければとも思っていました。それに家族は家族でそれぞれ大変な時期だったので、とても自分のことを相談できる状況ではありませんでした。

    また、私は下位での内定だったので周りの方々がとても優秀に見えて引け目を感じていました。自分としては大変で大変で仕方ない業務でも他の職員だったらこなせる業務量だから任せられているんだと思っていました。
    また、とりわけ仲が良く、社会人の始めの頃からよくお話をしていた同期2人がいて、その2人がそれほど業務量が多くないと話していたこと・実際にほぼ毎日定時で帰っていたことから自分とは違ってすごく優秀で仕事ができるから帰れるんだと思っていました。

    家族にも職場の上司や先輩にも同期にも相談できない時期でした。せめて職場の上司や先輩、同期には自分は今こういうことで悩んでいる、キャパオーバーだと正直に相談できていたら良かったなと後悔しています。自分の弱さやできないことを素直に認めてそれを話せていたら状況はもっと変わっていたのかなと思っています。

ついに職場に行けなくなった時のこと

もうすぐ社会人になって一年が経過しようという3月、ついに職場に行けなくなりました。職場に行こうとすると涙がとまらなくなりました。職場に電話をしてお休みをもらいました。一方で休んでいる間も仕事のことが心配で仕方ない状態でもありました。明日は行かなければと思いながら日々過ごしていました。

職場復帰した時のこと

...なんとか2週間ほどのお休みで復帰しました。職場の先輩が自分が休んでいる期間に締切があった業務を進めてくれていました。また同期に恵まれ心配してくれたり気遣ったりしてもらいました。職場で休んだことを責められることはありませんでした。

...ただ休んだからといって自分の業務量が見直されることも減ることもありませんでした。
上司が私の業務を一つ減らしたと伝えてくれたのですが全体の業務量の1%にも満たないような業務で愕然としたことを今でも覚えています。

満身創痍ながらなんとか社会人1年目の3月を終え次年度になりました。
次年度になるとメンバーが変わり新しく異動してきた方々より自分が1年長く在籍している分、質問されることも多くなりました。業務量を減らされることもなく配慮されることもなく…不調を来して休む前と何ら変わらない、何事もなかったかのような日常になりました。
ちなみにその部署には3年間在籍しましたがずっと息つく間もない毎日でした。

この経験を通して気付いたこと

  1. 自分には向いていない職業だった
    日々忙しく一つ一つの業務にじっくり向き合う時間がなく、たとえうわべだけの理解だったとしても、とりあえず進めなければならない業務が多かったです。
    私は広く浅い業務より深く狭い業務、スケールの大きい業務より小さくても一つ一つ、一人一人としっかり向き合い納得感を持って進められる業務をしたかったことに気付きました。
    また法律や規則などに基づいた業務が多く、目の前で困っている人がいたとしても柔軟な対応で助けられず、相手の心に寄り添えない場面もありました。
    ある程度でも助けられる方法を模索できたり、ケースバイケースでニーズに応じた対応方法や救済手段を考える余地のある業務がしたかったことにも気付きました。

  2. マネジメント能力が高い上司のもと、協力体制が整った職場で働いてみたいと思った
    配属された部署は年中繁忙期のような目まぐるしさでしたが、個々の担当業務によって山場を越える時期が異なり、チームとして協力して乗り越えたという達成感を共有することがほとんどありませんでした。一人だけの終わりの見えない繁忙期でした。かなり重要度の高い案件を抱えていたので、一人で失敗できないプレッシャーと闘っていました。
    しかし社会人1年目で、滞りなくスマートにこなせる業務はない、と思うのでどんどん失敗して構わなかったと思っています。大変さを表に出すべきでした。
    仮に失敗してスケジュールが押して締切に間に合わない状況になったとしてもそれを組織としてフォローする体制が整っていないことの方が問題でSOSを発信した後は上司の責任であり一人で悩む必要はないことに気付きました。

    一人一人の単位ではきっと優秀な人が多いのだろうと思いますが、組織になると人任せにしたり仕事を押し付け合ったり大変そうなメンバーを見ても素知らぬふりをする風潮があったように思います。
    「今年で自分は異動だから(後は関係ない)」と言う先輩職員が一定数いました。自分の仕事が忙しいのは分かるのですが...組織としての体制が本当に整っていなかったです。そういった体制が若手職員が「助けて」という機会を奪っていたような気もします。

    こういった業務内容、業務量、職場環境を総合的に勘案して他の組織で働いてみたいという気持ちが芽生えました。

  3. 適正な業務量が割り振られているとは限らない
    業務内容に応じた難易度や所要時間の可視化ができておらず前年度の担当者の業務をなんとなく引き継ぐというのが実態だったように思います。1年間の担当業務決定後は年度途中で不測の事態が発生しても柔軟に業務分担の見直しをすることがなく、何があっても1年間続けなくてはならないことが負担でした。

    職場全体の雰囲気として融通が利きそれなりにうまくやってくれそうだからという理由で業務の難易度に関わらず若手職員に割り振られることやその後は担当者へ丸投げという面もあったと思います。
    その他にも若手職員が突発的に発生する日々の電話や来客対応などを担っていたりお給料に見合わない働きぶりをしていることも多かったように思います。突発的に発生する業務については当番制にするなど業務量の平準化を図る対応があっても良かったのではないかと思っています。

    上司の采配によるところが大きい業務分担や追加依頼ですが上司はそれほど深く考えていなかったのでは...とも思っています。
    自分なりに大変で手一杯なら、まずは遠慮せずに断ることが大事で、身体の不調を来すまで一人で抱え込む必要も耐える必要もないことに気付きました。

  4. パソコンスキルの習得が大事
    私の配属先ではOJTなどはなく即戦力としての働きぶりが求められました。実務では公務員試験勉強で得た知識よりパソコンスキルのほうが、はるかに役立つので入庁前にExcel関数やショートカットキー、タイピング、Word文書などの勉強をしておけば良かったと後悔しました。今思えばVBAで自動化することで効率化できる業務もたくさんあったと思います。
    パソコンスキルに苦手意識があったことも業務を負担に感じる一因だったので、せめてその点を払拭しておけたら良かったなと思いました。

  5. 自分に合った余暇の過ごし方を大切にする
    私は、一人時間を大切にすることでエネルギーを充電するタイプなので無理をして周りに合わせて飲み会などに参加する必要はなかったと思っています。
    「飲み会でしか話せないことだ」と毎回同じような職場の不満を言っている人たちがいました。しかし、そういったことは業務時間内に然るべき人に意見として伝え改善されるようにすべきだと思っています。飲み会が実りのある時間だと思うことが少なかったので、せめて限りある余暇の時間は自分のペースを大切に過ごす優先度を上げるべきでした。

  6. 異常な環境だと思ったら逃げても良い
    このままこの職場の常識に染まりたくないという気持ちがある一方で、ホワイトで安定していると評判の職業だからこそ辞めないほうが良いのではないか、辞めてもこれ以上良い職場とは出会えないのではないかという不安がありました。
    周りからも辞めるなんて惜しいと言われたり、辞めないように説得されたりすることもありました。
    しかし無理に続けて身体に不調を来す方が取り返しがつかないので、異常な環境だと思ったら社会的評価に縛られずそこから逃げることが大切だと思いました。
    社会人1年目でこんな風に思えたことはとても幸運なことでした。

最後に

家族の理解や後押しがあり、おかげさまで5年勤めたのちに地方公務員を辞めることができました。あの環境から逃げられて本当に良かったと思っています。

次回は民間企業へ転職した時のこと、そしてそこでリストラに遇った経験を書こうかなと思っています。

ちなみにリストラに遭ったときでさえ、公務員を辞めなければ良かったとはつゆほども思わなかったので、本当に辞めて良かったのだと思っています。笑

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

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