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アンフォールドザワールド 10

10

 川沿いのオープンカフェに風が吹き込んでくる。海が近いせいか、かすかに磯の香りがする。イチゴは手付かずだったオレンジジュースを一口飲んで、酸っぱかったのか、少しだけ眉をひそめる。
「きずな先輩」
「え?」
「交渉をしてください」
 同じテーブルに座るちかこに、軽く脛を蹴飛ばされる。
「あっ、そうか。えーっと、イチゴ!」
「うん」
「あんたとナニガシが映っているこの動画を削除して欲しいんだったら、ほのかを返せ! それからいま、私たちのまわりでなにが起こっているのか、ちゃんと説明してもらう」
「ミッチ・クラウドイーターが奪っていったSDカードも返却していただきたい」
「君たちは、思い違いをしてるんじゃないかな」
「どういう意味だよ」
 イチゴの背後に、建築中のリバーサイドモールが見える。建物を包んでいる白いシートが、風で蠢くように揺れる。
「俺と交渉する権利なんてないってこと」
 愛の言葉でも囁くように、イチゴは小声でそう言った。

 その瞬間、ぐるりと視界が回る。

「えっ、うわっ、なに」
「きずな先輩?」
 ちかこの声が遠く聞こえる。違う、ちかこは私のすぐ目の前にいる。そしてその声は、目の前で発されている。それは分かっているのに。私はいま、川沿いのオープンカフェに座っているのに。

「なんだ、ここは……」
 水の音が聞こえる。イチゴは私の目の前に座っている。足元には水。一面の濃い緑色の木々。
「きずなの窓を開いたよ」
「窓?」
 手首が縄のようなもので縛られている感覚がある。私の両腕は持ち上げられ、渓流に立つ細い木に縛り付けられている。山深い川の中に、私の両足は浸かっていて、同時に私はオープンカフェの席にもいるのだ。異なる二つの空間を、私は同時に見ていた。
「ここは、あんたたちの世界なのか」
 足元に転がる石や岩が、私の知っている世界と少し違っていた。紫やピンクのマーブル模様で、木々も草も、よく見ると不思議な葉形をしている。
「違うよ。でも、この世界は既にテリトリーだから、ある程度のコントロールはできる」
 私の前にある大岩に、イチゴは腰掛けていた。川の上流から、大量の水が流れてくる。私の立たされている川はあっという間に増水し、水位が太もものあたりまでくる。
「くっ」
 頭の上で縛り上げられた両腕は、力を入れても外れそうになかった。
「助けてくださいって、言える?」
「言うもんか!」
 期待通り、といった風情でイチゴが微笑む。
「こっちの世界で溺れると、あっちの世界のきずなも溺れるからね。大丈夫?」
「うっ……、ああっ」
 強い水流が、私の身体を叩いていく。水位はもう、あごのあたりまできていた。イチゴの座っている大岩もすでに水没し、腰のあたりまで水に浸かっている。そうして私のことを、慈しむように見下ろしている。
「俺に、ごめんなさいって言おうか。それから、パスワードを教えて」
「がっ、がぼっ……」
 口に、鼻に、水が入ってくる。イチゴが右手で私のあごを持ち上げ、顔を覗き込む。
「死んじゃうよ?」
 冷ややかな水色の目が、私のことを見ていた。だめだ、ここでこいつに負けるわけにはいかない。ほのかはどうなるんだ。
「ごぼっがばごぼぼっ!!」
 私は最後の力を振り絞って抵抗をする。

「なにをやってるんだお前は!」
「いてっ」
 イチゴが手刀で叩かれる。彼の後ろに立っていたのは、彼と全く同じ姿の男だった。
「わあー、きずなちゃん大丈夫?」
 三人のうちの一人が、縛られた両腕を解いてくれる。水流が弱くなり、川の水位が私の脛あたりまで下がる。
「げほっ、げほっ」
 もう立っている力も出せずに、私はよろよろと川の中に座り込む。
「ひどい目にあったねえ。かわいそうに」
「……フータ?」
「正解ー!」
 フータは私のそばにしゃがみこんで、背中を擦ってくれた。ということは、イチゴのそばに立っているのはミッチだ。
「独断で拷問とは、懲罰覚悟なんだろうな。イチゴ」
「拷問? まさか。ほら、ちょっとした水遊びじゃないか」
「水遊び!? 私、し、死にかけたんだぞ!」
「死ぬわけないよ。火炙りとか、精神的ダメージが大きそうな拷問は避けたし」
「いま、自分で拷問ってゆったよー、イチゴ」
「きずな。とりあえず窓を閉じる」
「え?」
 ミッチの言葉を合図に、視界が暗転する。

「きずな先輩?」
「……ちかこ」
 渓流の景色は消え、私の目の前にはオープンカフェとちかこの顔があった。間違いなく、私の住む世界だ。
「うわあああん!」
「大丈夫ですか。なにがあったんですか」
 急激に緊張が解け、私はちかこに抱きつく。ちかこは少し慌てて、それから私の肩に手を回す。
「えっと、ごめんね? 泣かすつもりじゃなかったん……」
 イチゴの言葉を聞き終えないうちに、私は立ち上がり、イチゴの頬に右ストレートを決める。
「すげー! きずなちゃんつよーい」
 私に殴り倒され、音を立てて隣のテーブルに倒れこむイチゴを、ミッチは冷ややかな目で見ていた。
「自業自得だ」
「ナニガシの映像流出より、きずなちゃんにひどいことした件の方が、マスタに怒られるんじゃないかなあ」
「きずな。イチゴがすまなかった。だが、そもそも俺たちも、ほのかと思われる女子のことを探しているんだ」
「は、話を聞かせてもらおうじゃねーか」
 私は鼻をすすり、拳で涙を拭ってから、ミッチとフータを睨みつけた。

11へつづく

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