『今夜はひとりぼっちかい?ー日本文学盛衰史 戦後文学篇』 高橋源一郎 講談社
文学、特に小説が広く読まれるためには、その小説が背景とする時代に対する共通の認識がなければならない。これをコンテクストと呼ぼう。近代文学は「近代」という、戦後文学は「戦後」というコンテクストを失って、読まれなくなった。
さらに、高橋和巳や井上光晴、野間宏、あるいは小林秀雄を読む「読者層」が存在した。読者同士の議論や語らいがあった。そんな議論をするサークルに加わるために読む、なんていうこともあったかもしれない。文学の「場」が存在した。敢えて言えば、ファッションだったのかもしれない。
現代の「場」は、ブログであり、SNSだろう。でも、コンテクストを失った文学は、現代の「場」に何を提供しているのかが、見えない。作家も出版社も書店も、何をしているのか分からないまま、どんどん消滅しているのが実態だ。
著者は当書の大半を費やして、戦後文学や純文学が、現代といかにずれているかを、パロディとして描いている。残念ながら、同じ著者の傑作「日本文学盛衰史」と違って読みにくい書だけれど、「戦後文学」をリアルタイムで体験していない読者でも雰囲気は分かるのではないか。
行末は悲観的なようだけれど、小説の先行きは真っ暗か、といえば、そうではないようだ。
「どのような条件の下でも、そこに複数の人間がいて、繋がろうとする意志があるなら、小説は生きられる。
小説とは、共同体のひな型、もっとも小さな共同体であり、やがてやって来る共同体の内実を予見する能力を持っている、とぼくは考えている。」
そして、
「ぼくたちは、ようやく、自由に読む術を手に入れようとしつつあるのかもしれないのだから。」(166ページ)
その術は?という問には答えられないまま、当書は、東日本大震災という、文学の想像力を越えた災害に直面し、発せられた言葉に太平洋戦争のデジャブを見てしまう。
大部にして未完の書のページをめくったような読後感だ。いずれ完結編が書かれるのでは、という気がする。それが、退化した時代への鎮魂の文学の到来を告げるものではないよう、願っている。