「ネーション=ステートと言語学」柄谷行人(岩波書店『定本柄谷行人集・4』より
春休みに柄谷行人を読もうと思っていたのだが、興味が別の方向に行ってしまった。そこで、小さな発見のみ短く記しておく。
柄谷行人の手にかかると、巨大な思想が鋭い批評に晒される。例えば、国語学者の時枝誠記の日本語文法論は西田哲学を手がかりにして得られたものだ、という指摘は目から鱗だった。
確かに時枝文法の、名詞、動詞などの「詞」は漢語由来のものが多い。つまり「詞」は世界言語としての中国語の影響下にある。それに対して、日本語の文構造の根幹を成す助詞や助動詞、すなわち「辞」は日本語母語話者、すなわち人間の主観を表している。時枝の「言語過程説」は、この「詞」と「辞」に対する考察を根底としている。
近代のある一定の時点の言語学を思想として見るのは、妥当であろう。柄谷行人からは離れるが、ドイツ語学では関口存男の「意味形態論」がある。関口存男は「意味形態論」を説明するために、ドイツ語の「辞」に当たる冠詞を選び、大部の著書を残している。時枝の「言語過程説」と関口の「意味形態論」は類似していると思う。ほぼ同時代に生きたこの二人がもしも会うことがあったら、どんな会話をしただろうか。
一方で、現在の認知言語学が科学であるならば、「言語過程説」や「意味形態論」は思想であって科学ではない、とも言えるだろう。科学に対する思想の立場や役割は、何だろう、とも考える。柄谷行人は思想史を論じているようでもあり、それは著作が時代背景に影響され、制約を受けているせいかもしれない。思想を歴史として語ることは、思想の無力化にはならないのか。
認知言語学を使って「言語過程説」や「意味形態論」を解明できないか、と考えているうちに、結局、柄谷行人から遠く離れてしまっていることに気が付いた。