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(詩集)『死んでしまう系のぼくらに』 最果タヒ リトルモア

 フィルムカメラの時代、夜景を写したネガは透き通っていた。透明なネガを印画紙に焼くと夜景が現れる。夜を再現するために透明となったネガフィルム。ティーンエイジャーだったころ、ネガフィルムのようなノートを溜め込んでいた。書くうちに文字がだんだん透き通ったかもしれない。何十年も経って読み返すと、下手な散文詩のようでもある。天才詩人、最果タヒの場合は、ネット空間が夜を写し取るネガフィルムだったのだろう。そこに書かれた文字に、 誰かが詩という名前をつけたのだ。
「ただきみに、わたしのせいでまっくろな孤独とさみしさを与えたい。」(最果タヒ「死んでしまう系のぼくらに」P9「夢やうつつ」)

 「死んでしまう系のぼくらに」は最果タヒの第3詩集。縦書きで散文に近い詩と、横書きの短い詩で構成されている。縦書き、横書きの組み合わせは「夜空はいつでも最高密度の青色だ」に踏襲された。横書きは、詩がネットに発表された雰囲気を示そうとしたようだ。最果タヒはもともとはインターネットの「現代詩フォーラム」で活動していた人らしい。だが、第1詩集の「グッドモーニング」はもっと横書きが多いか、と思ったら、全部縦書きだ。第3詩集に始まった横書きは、詩人がネット社会で育った読者と同じ目線であると示そうとしているのかもしれない。ネットで発表され詩集に横書きで収録された詩は、ツイートと同じぐらいの長さで、直感的に読めるのも、詩集が広く読まれる理由だろう。

 さて、この詩集が透明なネガフィルムである理由その1。死という言葉の頻出。詩集の中で百回近く、繰り返される。だが、死の中身は追求されない。愛や生の移ろいを際立たせるための死なのだろうか。そもそも死とはプライベートなものであり、そのイメージも人により違う。最果タヒは死を具体的に表現せず、読者が自分のイメージを代入できるように方程式のXとして使っている。透明なのだ。

 理由その2.最果タヒという存在が透き通っている。実体が見えない。対談はあるが顔は隠されているし、朗読もしない。生身の人間として姿を現すことはない。作品は、囁きのような文体と相まって宇宙の果てから自分宛に届いたメッセージのようだ。作者自体が透明なのだ。

 この透明なネガフィルムから印画紙に浮き出てくるのは、読者自体の心の世界なのだろう。その生は死に縁取られているけれど、死そのものがテーマなのではない。経験の雑味に紛れることなく生きる本質を追求している。これは、ティーンエイジャーの心の特性の最大公約数を取り出したようにも思える。自分は誰なのか、どこに行こうとしているのか。

 作品の中で、ぼくは「線香の詩」がとりわけ好きだ。前半と後半のアンバランスさが、死生観の生々しさを捉えているようだ。天才詩人・最果タヒ。たまたまこうなった、はずはない。

「ベランダにあったはずの蝉の死骸がなくなっていて
 生き返ったのかなとご飯を食べながら平然と思う
 ・・・・
 悲しいことを泣き叫ぶ以外の方法を
 もっている生き物に生まれたかった」  (P23 「線香の詩」)