『郊外の社会学』 若林幹夫 ちくま新書
新宿から小田急線の快速急行で30分の、まほろば。記憶の中にしか存在しない街だ。『郊外の社会学』の著者、若林幹夫とぼくとは、どうやらそのまほろばの街で、同じ時に同じ光景を見て育ったらしい。雑木林や畑がつぶされて団地になり、コンクリート造りの遊び場が出現したこと。夕方、駅を降りてマイホームに向かう大勢の人達。都心への通学、通勤。ティーンエイジャーの頃、街の目抜き通りで「23万人の個展」というお祭りが開かれ、やっとコミュニティの「ハレ」の気分を味わったこと。
それらはすべて、まほろばの出来事だ。
(『郊外の社会学』読書メモから)
過去と記憶をめぐる暴力と忘却のあり方
いくつもの異なる人びとの営みと意識の層が折り重なる
1キロ四方の空間の中で同じ時を過ごしていた。それなのに著者と出会うことはなかった。まほろばでは一人一人が孤立した、ばらばらのまほろばに住んでいた。
(読書メモから)
近郊の農地や山林を切り開き、他所からやってきた都市勤労者世帯のために家々が立ち並ぶ郊外には、そこに暮らす人びとにそもそも共有された歴史も伝統も、よってたつべき共通の文化や風土も存在しない。
もともと何もなかったところなので、人びとは記号を買い求め、街に置いていった。住宅はその最初の記号。豊かさではなく豊かさの記号。お洒落ではなくお洒落の記号。文化ではなく文化の記号。そしてキッチュ。その街で人びとは、リアルなのにバーチャルな恋愛を経験し、実体があるのにバーチャルな家族を作った。
(読書メモから)
郊外は欠如態(失われたのか、まだ到来しない理想か) サバーピア
20世紀から21世紀へと時は移り、記号のあるものは積み重なって地層を成し、あるものは残骸となった。
人びとはどうなったのか。年老いて、まほろばから都心に通勤することもなくなり、それでも、まほろばはそこにあると信じている。ばらばらに孤立したまま。
まほろばが次に引き寄せるのは、どんな人たちだろうか。
『郊外の社会学』は筆者の、このような印象的なことばで終わっている。
「そのような生の集合性の場所として、郊外という社会はある。そんな郊外を行きてきたひとりの社会学者をゴーストライターとする、個人的であると同時に集合的=社会的でもある”郊外の自叙伝”として、この小さな本は書かれたのである。」(同書・221ページ)
『郊外の社会学』は2007年に発行されたが、現在は新刊で入手できないようだ。発行から10年の間に郊外の住人の高齢化が急速に進んで、時代に合わなくなったせいだろうか。再刊なり新版を期待している。
ぼくは昨年暮れから、郊外の孤独を社会学と文学をクロスオーバーさせてとらえるというテーマに取り組もうとしてこの本を読んだ。このテーマは小論文にした段階でポシャってしまった。残念だ。