(詩集)『夜空はいつでも最高密度の青色だ』 最果タヒ リトルモア
ユリイカ今月号(2017年6月号)の最果タヒ特集を機に、タヒさんの詩集を読み直している。「夜空はいつでも最高密度の青色だ」から遡っていく。この詩集は映画化された。大勢の人に読まれ支持される詩集、その秘密はどこにあるのだろうか。
まず、佐々木俊さんによる装丁が目を引く。モニター画面を拡大すると見えてくるドットか、スマホのゲーム画面を連想させる。佐々木さんご自身が「ユリイカ」で書いているように、最果タヒがインターネットを中心に活動してきたイメージを大切にしているようだ。
詩集を開くと、43編の詩のうち15編が横組みだ。そもそもスマホの画面の上で、横書きで発想され創作されたのだろうから、横組みで発表された方が自然な気がする。最果タヒ.tumblr は、ネットの中に詩が生まれてくるところを視覚化して見せてくれる。
http://tahi.tumblr.com/
では結局、全体の半分以上が縦書きで印刷されたのはなぜか。縦書きになった作品はみな、やや長めで、ストーリーを感じさせる。読者が文字を目で追うスピードをわざとおとして、一行、一行を味わせようとしているのかもしれない。ちなみに中国に最近行った際、日本の本まだ縦書きなんだね、と言われた。縦書きは、文字による表現を豊富にするための貴重な習慣となったようだ。
最果タヒさんの文体は、ありがちな詩の言葉、独白調ではない。「きみ」の存在が意識されている。読んでいると、誰かが自分に電話してきて呟くのを聞き続けているような気になる。宇宙から自分宛に謎のメールが届いたようでもある。話しかけられていることが、読者を強力に惹きつける。この文体は、文学としての使用に耐える日常語(口語)の次世代バージョンを予感させる。短歌が定型に縛られていまだに文語・口語という選択肢で迷っている間に、現代詩はさらに数歩、先に行ってしまったかもしれない。かなり戦略的に使う文体、という印象もある。
この文体で書かれた作品の中に散りばめられているのは孤独であり、友情であり、愛の儚さであり、永遠とは何か、という問いかけだ。それらを作品のテーマとするならば、読者にとってテーマを理解するのは難しいことではない。文体もテーマも、良くみかける現代詩と比べて格段に、読者フレンドリーだ。
敢えて言えば、愛の儚さはあっても、恋愛はほとんど語られていない。実はこれも読みやすさに繋がっていると思う。読者自身が恋の真っ只中にいるのでなければ、恋愛そのものをテーマとした作品は、人ごとのように読めてしまう。
もっとも、映画化された「夜空はいつでも最高密度の青色だ」はラブストーリーらしい。映画は、読者ならぬ観客に最初から景を提示してしまうのだから、恋愛を主軸にしたほうがかえって分かりやすいかもしれない。
一方で、作中には前作「死んでしまう系のぼくらに」同様、死が頻繁に登場する。前作のような直接的なタイトルではなくても、「夜空」「青」からはそもそも、死がイメージされる。ぼくが作品を読む限りでは、少なくともこの詩集の作品からは、死そのものの姿や意味ではなく、愛や友情といった生の営みの境界を際立たせる死を扱っているように思う。
これからタヒさんの作品は、死そのものの追求に変わって行くのかもしれない、という予感がある。例えば詩集の47ページ、「夏」の最後の一行、
「はじめから、そして永遠に、私にとってきみは死体だ。」
また50ページ、「花と高熱」の最後の一行は、
「きみが終わらないと、世界は続かない。」
生は、常に姿をかえ、時に逃げていってしまうものだが、死は絶対的な存在(あるいは無存在)だ。死んでしまった友達は、その人が生き続けることで誰かを裏切ることはない。そんな考察が感じられる。