『知的創造の条件』 吉見俊哉 筑摩選書
著者は、社会学の考え方を基本に都市論、メディア論から政治に至るまで、スケールの大きな知見を発表している研究者だ。カルチュラル・スタディーズの紹介者としても著名である。「知的創造」とは、著者の活動そのものだろう。幅広い知的創造がいかに行われているか、この本からそのあらましを知ることができる。
まず注目したのは、「問い」を、知的な活動や創造のベースとして、はっきりと位置づけていることだ。著者は「問いが生まれてくる回路」について、「実社会の経験」、「報道で知った社会問題」、(研究書や文学書などの)「古典」または理論、さらに「対象自体への深いこだわり」を挙げている。問いの幅広さが、著者の知的創造の幅広さそのものになるのだろう。
また、著者は、問いとリサーチクエスチョンの違いについて言及している。たぶん、中堅から若手の研究者の多くは、この違いが体感として理解できないのでは、と思う。敢えて言えば「問い」の回路に問題がある人が多いようだ。この本の第1章で述べられている著者の人生経験と、自分の経験を比較して欲しい。
第2章は、「問い」に始まって、理論的な本を「きちんと」理解することや、先行研究を批判的に読むことの必要性から、創造的な仮説が生まれる仕組みまでが述べられている。特に研究者を目指す人にとって、大切なことが、たくさん書かれている。
第3章は「情報社会」と知的創造との、現代史を軸にしたダイナミックな関係について述べられている。第4章でAIについて述べるための序論のようにも読める章だ。ちなみに、「情報社会」という概念は、1960年代の日本から広まったものらしい。すべてがリアルだったはずの時代に、なぜ情報社会という概念が生まれたのか、不思議に思った。
第4章は、本書の副題である「AI思考を超えるヒント」について述べている。まず否定されるのはシンギュラリティ(技術的特異点)だ。技術革新は指数関数的に進むのではなく、マルサスの人口論が誤りであったように、やがて飽和して定常状態、または崩壊に至る、というのが著者の主張である。しかし、それは楽観には繋がらず、AIに奪われる仕事が増えて何となく活力のない社会が到来する、そう著者は予想している。これは、緩やかなディストピアが到来する、ということだろうか。一方で、AIは、大震災のように、非連続で根本的に予測不能なものには対処できず、また、データ化されない「思い出」や「語り」、暗黙知を取り込むことができない。これは確かにAIの盲点ではあるが、人間にとってピンチなのか、チャンスなのか。
さらに著者は、情報に対して、知的な価値と時間軸を持つものとして、美術館や図書館のアーカイブの重要性を説いている。これは、議論としては正しいだろう。しかし、ネットの中での、情報の持つフロー量と、アーカイブの持つストック量との圧倒的な差を考えると、有効性に疑問がある。
これらのヒントはヒントとして、さらに議論を積み重ねていく必要があるだろう。問いかけることを続けよう。自らを更新し続けよう。筆者は本書の中で「アタック・ミー!」という授業を紹介している。学生が教師の論文や著作を徹底的に批判する授業だ。学生は、批判することにどれだけの調査と思考が必要か、学び取る。批判により教師も成長する。こうして見ると、人類はAIに、アタック・ミー!と呼びかけている、とも考えられる。AIは人類に、またとない成長のチャンスを与えてくれるのかもしれない。