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雨の匂い

 「雨の匂いがする」

下駄箱を通り過ぎて、唐突に君は言った。

「え、何?なんの台詞?イケてるね」

「いや、普通に、匂い。嗅覚」

「匂い?」

僕にはさっぱり感じ取れなかったが、そこには確かに雨の匂いがしたらしい。芝居がかった胡散臭い言葉も、君が言うと真実だった。しばらくすると、並べた肩をぽつりと雨粒が叩いた。

 雨はすぐには強くならなかった。僕たちは狭い歩道を、前髪を湿らせながら歩く。最近伸びてきた君の髪の毛は、普段の二倍くらいに膨らんで、癖毛の本性を現している。

 雨の気配なら、僕も感じていた。低気圧による偏頭痛は朝からだったし、さっきから空気が濡れていた。湿度百パーセントで滲み出した水滴は、さらされた肌にしっとりと絡みついて離れない。僕らは同じくらい周りの空気に敏感だけれど、感じ取り方はそれぞれだ。

 前を歩くカップルが、折り畳み傘を取り出して二人で入る。真っ赤なお花の華やかな傘は、くるんと回って水を弾いて、瑞々しく光る。背丈の小さな女の子の方に少し傾いた明るく晴れやかな空間に、二人は寄り添うように収まっていた。

 君の髪の毛はもうびしょびしょで、先程までのボリュームは見る影もなかった。いつの間にか、雨は本降りになりつつあった。

 ワイシャツが濡れて、薄い肩と下着の線が透けていた。カーディガンを貸そうとして、僕にはもうそんな権利がないことに気づく。赤い傘は右へと曲がって行き、僕たちの進む道はより細くなる。僕はわざと一歩遅れて歩いた。

 君は髪の毛を伸ばすことにしたのだろうか。セットが大変だからと顎のあたりで切り揃えていたボブスタイルは、今年度に入ってからぐんぐんと伸びた。長い間一緒にいるけれど、肩につくまで伸ばしたのは初めてだと思う。毎朝ストレートアイロンで癖毛を直しているところを思うと切なくなる。

 雨はしとしとと降っている。本当は、僕は折り畳み傘を持っていた。君は傘を持ち歩かない。僕が持っているから、君には必要ない。

 でも今日は、傘を差し出せなかった。

 君が立ち止まって振り向く。僕も一瞬遅れて立ち止まる。君の家の前だ。お隣は僕の家。同じ色をした、同じ形の小さな家。母子家庭で、同じように育ったのに、君は女の子で、僕は男の子だ。腕を伸ばせば抱きしめられる位置で、君は僕を見上げて、笑った。

 逞しく上を向いた睫毛に、雨粒が光っている。

「きっと、明日からは、一緒に帰らないよ」

「ああ」

「きっとね」

「だと、良いな」

これからは、あいつと一緒に帰るんだろ。君に傘を傾けるのはあいつで、カーディガンを貸すのも、なんの躊躇もなく腕を伸ばすのも、君のくるんと内巻きの髪の毛を撫でるのもあいつになるんだろう。僕はずっと君の気持ちに気が付いていて、君は、きっとそんな僕に気が付いていた。

 深く息を吸ってから、君は後ろを向く。

「だと、良いんだ?」

ほんの小さく、拗ねたような声で、呟いた。僕が答えないでいると、ゆっくりと歩き出す。

 反射的に、腕を伸ばしていた。細い肩を抱き寄せて、ずぶ濡れの髪の毛を胸に押し当てる。

 一面にぶわりと、雨の匂いがした。

 君が言うんだから真実になるんだろう。もちろん良いわけないけど、君が望むのなら仕方がない。僕の願いは君が幸せになることだ。でも、それなら、僕が幸せにしてあげるのに。

 「ごめん」

けじめを付けておきたかったということくらいわかる。君がそうしたいならそれでいい。君の望むことをしたい。腕の力を緩めると、雨の匂いは遠ざかって行った。

 ずぶ濡れで震えていた小さな君が、いつかまた、僕の隣で笑いますように。諦めの悪い僕は、強くなった雨に打たれても、この想いを流すことなどできなかった。

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金とき
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