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日々短文日記 『ひらめきは論理を超えたところにある』とごぼうサラダから学んだお話 (20190916)

コンビニで買ったごぼうサラダを食べようとしたら、入っていると思っていたお箸が無くて困っていた時の話が抽象化できたので書こうと決めて、ごぼうサラダを片手に新幹線内で文字を打っている。

とりあえず箸がないことに気づいたその時の僕は、
・その場で食すのは諦めて持ち帰る
・車内販売で何かを購入し、箸をもらう言い訳を作る
の2択しか出てこなかった。
しかしよく考えてみろ…別にごぼうサラダって箸使わなくてもいいんじゃないのか?そもそも僕にとってのゴールはごぼうサラダを口の中に運んで飲み込むこと。
Aがごぼうサラダを購入するというスタートでB→C→と過程を経て進み、Dがごぼうサラダを口に運んで飲み込む結果とした時に、この流れをスタートから組み立てて考えることは大事だし、部分にフォーカスして全体を掴む分析のようなものは僕は大好きだ。Bは割り箸を割る、Cはその割った割り箸でごぼうを掴んで口まで持っていく。たしかに、大半のことを過去の自分で生きている僕らならそう考えてるし、僕はついさっきまでそう思ってた。
でも別に、A→Dのフレームから考えることも可能ではないか?買ったごぼうサラダを食べれればなんでもいいのだ。そう、箸なんて使わなくても、袋の下腹部を押し上げながらごぼうを上に持ってこれば口に届く。

A→B→C→Dと頭から順番に言語で予測を立てまくってどうするか道筋を立てるのも大事だけど、A→Dを捉えて考えるのもやはり大事なことだ。両方の行き来、言語と現象の行き来とでも言うのだろうか。

物凄く雑に簡潔に事実だけをあげてしまえば、箸なしでコンビニのサラダを食べる方法がひらめいたという話。文字に起こして残したいこと、共有したいことは、ひらめきは論理を超えたところから生まれる。この考え方も悪くないということ。

箸が入っていなかったことに感謝するメンタルで人生続けていきたいなぁ…

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