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日々短文日記 『必要以上に失いすぎた物たちがもたらした恩恵と言う名の虚無』(20190912)

今必要なこと、それは一言で"再定義"なのかもしれない。時間が僕にもたらしているものを最大限活用するならば、それは恩恵になるだろうし、しなければ腐敗していく。自分の手の中にあるという当たり前のことを考え直さなければならないのだろう。

思い返せば僕はここ最近でいくつか捨ててきたものたちが浮かぶ。お酒は完全に飲んでないわけではないが、ほとんど諦めた。煙草はきっと捨てたうちにはいるだろうと言えるそれなりの時間を担保として持っている。食欲を捨てたという表現が正しくはないが、食に卑しい気持ちは昔より捨てていると思う。忖度と圧迫感を思わせるような空気を漂わせた集いによる付き合いはかなり捨てている生活を今送っているつもりだし、しかしながら忖度によって個の集合体という名の集団で機能している場には忖度を行使してやるべきことを先延ばしにすることで空白だけが続いている。

時間だけが増えていき、余白から生まれるという思いだけが独り歩き、余白から生まれたのは空白などという言葉には値しないほど限りなく腐に近い。空虚だ。少し前の僕からしたら陳腐すぎるほどである。

やることがないなどという話ではないし、やるべきことはそれなりに残されている。しかしながら、それを目の前に生活していても空虚さを感じさせるこの空間は何なのだろうか。今やっていることが本当に自分にとって真なのな偽なのかという議論ができる足場が、そもそも作られていないという不安定さの中で生きているような気がする。今自分が置かれている環境、つまるところ自身の手で作り出したものによる恩恵と弊害で囲まれたこの世界に疑問が生まれてしまったのだ。

問い続けながらも、ただただ目の前を生き続けてきたことに不安を抱きながら信じて進み続けられる心がないのか、自身の現場で手を動かすというものを第3者的視点から俯瞰した時に感じた違和感によるものなのか、はたまた嘘に嘘を塗り続けてきたものが限界を感じて核が見えるようになっただけなのか。
どれも嘘でどれも本当なのかもしれない。複雑であるかもしれないけれど、実はもっとシンプルな話なのかもしれない。

今日を切り取っても僕は疑問だらけだった。
電車に揺られながら本を読んでいても不安、ニュースを見ていても不安、サブカル感溢れる世界観の中で探し物を探そうとひたすらに歩くことにも不安、人が溢れる場所での自分の行動にさえ不安。不安などという言葉が本当に今の自分に最適な言語なのかわからない。この発言を切り取っても不安という言葉はまぁお似合いなのは見ていてもわかる気持ちがあるのは事実だが…

僕には与えられた時間を切り取った中で何に時間を費やそうかとその場でその場から次の切り目までを考えるものが小さい頃から向いていなかった。その場でさえ不安を感じる上、その時間たちが置いていかれたものになると後悔しか残らない。しかし、余白には憧れがあった。今でもある。でもその余白とは、ただ単に時間がたくさんあるというセリフだけでは物語れない。心の余裕が余白にカテゴライズされるのであれば、今の僕は可処分時間が余裕の担保として機能せずに、不安に囲まれている状態、パラドックスなようで、コンテクストがないようで、しかしながら成り立っている。

生活を通して話題がない。
学生の夏休みという札を掲げて生きているいるつもりはないが、それは多分何も生み出せていないからだ。その現実を受け止めるための余裕を作り出すための言い訳にしているだけなのだ。情けないとは思わない。しかしながらどこか悔しさや虚しさが残るということは、ただただ人生を俯瞰しても充実してるとは言えないということなのだろう。

僕にとって物理的余白としての時間を見ていたばかりか、僕自身に余白が全くもって生まれなかった。余白を作るための情報とスキルを手から離そうとしていた。そしてそれにさえ気づかなかった時期があったということは、それはただ空虚な時間を得ていただけなのだ。残念である。自分自身いつからこんなにも時間というものに囚われ、考えさせられ、悩まされ、困らされ、呪縛からの解放を願おうとしたのかは忘れてしまったが、問題は別のところにあったのかと思うと、これさえも空虚に感じさせられる。虚無だ。

(今日の情報は完全なる個人を描いたつもりなので、全て同じ字で並べさせてもらいます。)

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