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他者という名の境界線
やっと読み終わった 『LIFE SHIFT』さん…
電車の移動時間や家に帰ってから寝るまでの時間で読もうとするものでは無かったなということを読書感想文にしてやりたいくらいまとめて読むことが出来なかった。自分は短期集中型であるという僕にとって当たり前の事実が更に根拠を増して降ってきた感じ。受験勉強をしてる高校生の頃に、化学と数学が得意だった同級生の子に『数学の各単元は1日で全てやって理解した方がいい!』という言葉に揺らされて、以降その選択肢もありだなと考えさせられた時のことを思い出したくらいには本は一気に読みきりたいと思って生きていることを実感する。
閉鎖的なコミュニティで日々の生活を送り、人的ネットワークの拡張を目的に冒険をする生活をやめてから少し経つ。しかし、先日知人に『新しいことをやりたい!新しい人と繋がりたい!』と昼ごはんを目の前に発していたくらいには刺激を求めてしまっていた。
やりたいことは割とやっているという自覚で生きているが、5分ほど考えると過去に捨ててきたものをもう一度やろうという気持ちが少しだけだが湧いてくる。
僕の人生において選択は重要だった。今もそう。
人間の1日をとっても僕らは朝起きてから選択を強いられる世界にいる。例えば、僕は"音楽"を取ったことにより"運動"というものを捨てたし、この歳になって身体を適度に動かすということの重要性を理解したことによって"運動"が大きな機会費用になってしまった。だから最近運動をしようと考えて生きている。
考えているというか、なるべくしようと無理のない程度に予定に入れている。まぁアップルウォッチでアクティビティ機能を用いている時に普段の自分の運動量の多さに少し驚いてしまっているが…
自分が選択の末、熱量を注いできたが今やっていないものは何かと考えた時、・プラモデル・サバイバルゲーム・レゴブロック・ダンス・体操・サッカー・ゲーム・アニメがすぐに浮かぶ。僕はたくさん捨ててきたのだなという自己嫌悪に陥りたいくらいの気持ちなのだが、全くその手の感情が出てこない。燃え尽きたわけでもないのだが…
プラモデルは父の影響と同級生のガンダム好き少年の影響で小学校4年生からはじめた。サバイバルゲームも小学校3.4年生から同級生の影響と、当時流行ったメタルギアというゲームの影響ではじめた。レゴブロックは小学校1.2年生の時に親からもらったのをきっかけにハマったし、ダンスは小学校3.4年から教室にたまたま入ったのがきっかけで没頭してた。(教室に入るまでのきっかけは全く覚えていないが)
体操はやっていた弟がたまたま目に入った時にカッコよさを感じてはじめたし、サッカーは幼稚園から小学校3年生くらい(?)までやっていたのを覚えている。
ゲームはテレビゲームも、DSも、PSPも、ゲームセンターのアーケードも大好きで僕の青春の一つだった。
アニメなんて人生曲げられる勢いと物量で中学生の時に浴びていたのを思い出す。
パッと出てきたものだけでも文字に起こすとそれなりに質量と地層を感じる。無駄な日々だったのか、果ては有意義な時間だったのかという議論は難しいし誰も幸せになれないけれども、煎じ詰めれば今の僕はこれらを経て他社の目にすぐつくインターネットでゴチャゴチャ言わなくなったということだろうか。今心の底から戻りたいと思えることはあまりないし、最近欲しいものは任天堂Switchのスーパーマリオメーカー2くらいだろうか。でも今の僕がそれを手にしていないということは、多分それもそこまで要らないのだということ。欲しいものはない。
そういえば昨日知人からこんな言葉が出てきた。
いやー、自分には没頭出来るものがないんですよ〜羨ましいですよ〜!
僕は他人のことに対して下手に口を出すのがあまり好きではない。世間では割とよく喋る奴だという認識なのは十二分に理解しているが、社会的促進力を考えてその場にいるつもりなので、本心には誰も実は触れていない。自分の本当に思っていることは言わない方がいいということを母からよく言われてきたのが大きな土台になっていると思う。
この人に何か没頭出来るものが見つかるといいね!くらいの軽さで言葉を返した。しかしながら、それなりにこの人に対して哀れみの目を向けていたのは隠せていなかったかもしれない。
他人が楽しそうにやっている姿、夢中になっている姿、集中している姿を見て羨まむことが全て悪いとは思わないけれども、世の中にはきっとそこから妬みや嫉妬になっている人がたくさんいる。(前のnoteにも書いたが)
口先だけは立派に人のことを流暢に話す人間が僕の周りには多すぎないかと思う。それも人のことを負の感情に乗せて。気づいてない人がかなりだと思うが、人のことを話している時にその人たちはほとんどと言っていいほど嫉妬心で溢れている気がする。
僕の偏見であって欲しい。バイアスの塊だということに気づかせて欲しいと願うくらい僕の世界は今醜く見える。同じことを書かせないような出来事が起きて欲しい、いや起こせる環境にいたい。だから僕は新しい世界に行きたいと口にしていたのだと気づかされた。
『今の僕は実は自分の思う残念な人なのかもしれない。他者の鏡として生きているならそうに違いない…』
しかし昔から人は感動や共感はしてくれても行動にその後移すとは限らないことを知ってしまっている僕にはその理論は通用しない面がある。
ハッキリと他人に物事を言い続けても、ハッキリしない人はハッキリしてくれずに曖昧なものしか僕に届けてくれない。早く仕事を終え続けても、ギリギリで出す人はいつまでもギリギリで出してくる。他人の話を聞かない人の話をたくさん聞いてあげるように日々しても、話を聞かない人は話を聞くようにならない。
そういうことはある。もちろん1つの例だが。
人間は難しい。人間関係で世の中が悩まされる日々が続くのも無理はないだろう。こんな1人の大学生ですら思っているのだから。それでも僕は他人は自分の鏡であるというマインドは少し抱えて生き続ける。
あと5年以内には成果が出て欲しいと思うけれども…