何故ネクタイを締めてデジモンカードCSに参加することになったのか
これはある30代男性既婚者のカードゲームCS当日に起きた喜劇である。
男は関西で開催されるデジモンカードゲームの非公認CSに申し込んでいた。東京を中心に開催される人気CSの関西出張版の2回目の開催。前回は諸事情で泣く泣く参加を見送ったが今回は個人戦とチーム戦ともに申し込んでいる。数週間前からチームを組んだ仲間たちとデッキの相談をしたり、個人戦のデッキにああでもないこうでもないと頭を抱えたりする。この時間さえも参加の醍醐味で楽しさを感じる。数日前からの遠足の準備。煩わしい日常を乗り越える活力の源にもなる。
当日の朝。午前6時にむくりと起きる。まだ目覚めきっていない頭でぼんやりとスマホに目を落としながらゆっくりとエンジンをかけていく。6時10分になると妻のアラームがけたたましく鳴る。それでも妻は起きないので、アラームを切り、妻を起こすのが男の日課だ。しかし異変に気付く。いつもの時間にアラームがならない。いやな予感がする。いつもはこの時間に起きて朝の準備をし出す。シャワーを浴びメイクをして7時45分頃出掛ける。そのはずだが、奥さんは隣で口を半開きにして未だにすやすやと夢の中にいる。安寧な眠りを享受している妻と自分の謀略が瓦解する綻びを見つけてしまい頬が引きつる夫。確かめねばならぬ。ここで焦ってはいけない。急かすように起こすという行為はこちらからの心配や配慮のアクションだが、いかに起こす側に道理があっても寝ている側は不快な気分になってしまう。ここはやさしくゆっくりと声を掛けねばならぬ。「今日仕事じゃないの?」なんて起こすのは論外だ。そこには(妻が仕事じゃないとまずい)という余白が生まれてしまう。最適解はゆっくりと肩をポンポンと叩き「時間大丈夫?」とちょうどいい音量でささやくのだ。ビクッと反応し目が半開きになる。んにゃんにゃと妻が言葉を発する。「今日は午前休なの~」。戦慄する男。綻びは気のせいではなかった。ここはすかさず「あっそうなんだ起こしてごめんね」と切り返す。動揺は相手に見せてはいけない。起こす側が謝るってなんやねんというノイズとなる感情は排除せよ。寝ている相手との心理戦を繰り広げる。覚醒していないものの、妻は妻。その戦力差は常日頃痛いほど実感している。油断はゆめゆめすることなかれ。
男の「奥さんが仕事に行った後にのうのうとデジモンカードのCSにこっそりと参加する大作戦」は見事妻のワンパンで粉砕した。あまりにも脆い。こうなってしまったらさらなる謀略を企てるしかない。「仕事に行ったふりしてデジモンカードのCSにこっそりと参加する大作戦」にシフトチェンジしかない。幸いにも妻には今日の予定を伝えていない。妻もそうだが男も自分のスケジュールを相手に関わりがない限り伝えない。夕食などの問題が発生すれば適宜報告するが、特に問題がなければゴーイングマイウェイ。妻が唐突にエステに行くのもこういった背景がある。男にとっては唐突だが、妻は数日前から決めていること。もし「前もって教えてよ!」なんて訴えようもすれば「前もって教えてたら私が家にいないうちになんかしようとするんか?お?」とばっさりと切り捨てられてしまう。間合いを見極めよ。
男の仕事では10時~19時の勤務もあるのでおかしい点はない。いけるはずだ…!問題は荷物である。出勤鞄と遊びに行く鞄は違う。荷物の中身を入れ替えなければならない。ここでひとつ重大問題が発生した。妻が起きた。正確にはまだ眠たそうにスマホをいじっている。こうなってしまったら迂闊な行動はできない。好機を待つしかない。好機とはなにか。妻がお手洗いに行った時だ。ここは慌てずにいつものモーニングルーティーンをこなす。「今日はコーヒー?紅茶?」すっと立ちながらたずねる。「ん…紅茶」と甘えたような声で返ってくるのでキッチンにむかいケトルで湯を沸かす。妻のお気に入りのアールグレイを準備する。男がこれを横領するとしばかれる。できたよ、と声をかけると妻がゆっくりと身体を起こし、立って伸びをするとソファに腰かける。本格的な起床だ。テレビをつけてチャンネルをいつものニュース番組にあわせる。取り留めのない会話が流れていく。その間も男はいつも通りに振る舞う。内心妻がお手洗いに立つことを期待しながら過ごす。荷物さえ準備できればこっちのもんよ。もちろん「そろそろトイレ行っとく?」なんて訳の分からないことは訊かない。「今日はなんなん?」と妻が会話の中で訊いてきた。きた。このキラーパスは丁寧に返さなければならない。「今日は仕事だよ、10時から19時」ふーんと興味があるのかないのかわからない様子で紅茶を口にしている。
「奥さんに嘘をついてとんでもない夫だ!」と石を投げたくなる人もいるだろう。嘘をついているのは事実だし、嘘をつく行為は褒められるものではないことも重々承知だ。しかし、わが身かわいさもといわが身の精神的安寧のため、趣味の謳歌や人との接点を求める行為と家庭の平和を両立しようと愚かにもあがく男に石を投げつけるのであれば「うるせぇ!」と石を投げ返されることを覚悟せよ。そりゃ私だってキラキラした眼差しで「カードゲームの大会行ってくるよ!参加費は合計3000円だよ!」とまっすぐに答えたい。その後どうなるか火を見るよりも明らかだ。こう言っても「いってらっしゃい」と送りされる男になれるのだろうか。
男もシャワーを浴び歯を磨き身支度を整えていく。ワイシャツの袖に腕を通したその時、妻が立ち上がる。向かった先はお手洗い。扉が閉まりカチャリと鍵がかかる音に耳を澄ますと男はボタンが閉まっていないワイシャツと下半身はパンツというあられもない姿で行動に素早く移った。仕事用鞄に入っていた書類を引っこ抜き引き出しを開け隠蔽し、すかざずストレージとプレイマット、財布をねじ込む。ミッションコンプリート。水を流す音と引き戸をガラガラと開ける音が聞こえる。ワイシャツのボタンに手をかけ何事もなかった顔をする。妻は定位置に戻る。心の中で「計画通り」とガッツポーズをとりながらせっせと仕事にむかうような準備をする。ネクタイを締めネクタイピンでとめる。腕時計を巻く。そして革靴を履きそのまま家を出る。外は日がまぶしい。まだ梅雨にもなっていないが、夏の匂いを感じながら自転車を漕ぐ。向かうはなんば日本橋。
こうして休日のCSには似合わないネクタイを締めた30代男性カードゲーマーができあがった。その実は妻に仕事と嘘をつきこそこそと参加する30代男性の痛々しい姿であった。挨拶を交わす知り合い全員からと言っていいほど「えっ仕事終わりですか?それとももしかして終わったら仕事ですか?」と訊ねられた。それはそうだ、私だって逆の立場であれば同じ言葉を掛けるだろう。「アリバイ工作で…」と苦々しく伝えるとすべてを察してくれる。ありがたい話だ。参加者の中にはご夫婦そろって参加したり、奥さんがついてきて観戦してくれているご家庭だってあった。素敵だ。つい羨望の眼差しを送ってしまう。隣の芝生は青いしないものねだりをしていても仕方ない。自分時間を大切にしたいという要望が通るだけの裏付けをするために日々邁進するしかない。再びネクタイを締めてCS現れた時には「こいつまた…」と呆れてもらえれば幸いである。