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第1話: 海に導かれて

灯影湾(とうえいわん)。

その名前を知ったのは、偶然だった。

リサは、机の上に山積みになったデザイン資料を前に、肩を落として深いため息をついていた。都心の喧騒、終わりの見えない仕事の締め切り、人間関係のしがらみ。そんな日々から逃げ出したくて、ふと検索した。

「星空 癒やし 海 旅行」

検索結果に出てきたのが、灯影湾という小さな場所だった。サイトに掲載された星空の写真はどれも美しく、そして静かだった。写真越しに波音が聞こえるようで、リサは自然とマウスを動かしていた。


風泊港(かざどまりこう)。

木造の小さな船着き場が見えてきたとき、リサは少しだけ緊張していた。

「これ、本当に癒やされるのかな……。」

そんな不安を抱えながらも、リサはガイドブックに載っていた星空観察プランに申し込んでいた。申し込みメールには「ガイドが星空を案内します」とだけ書かれていて、詳しい説明はなかった。

船の上には、すでに数人が集まっていた。リサが恐る恐る乗り込むと、一人の男性が無言で手を差し伸べてくる。

「どうぞ。」

それがタケルだった。35歳くらいだろうか。漁師のような風貌で、日に焼けた肌と無骨な表情が印象的だった。

「ありがとうございます。」

リサはそのまま船の隅に腰を下ろした。周りには、カメラを手にした青年や、一見強気そうな女性、年配の男性、それから高校生らしき少女がいた。それぞれが無言で波音を聞きながら、どこか物語の始まりを待っているようだった。


星空が現れるまでの静寂。

「さて、星が見える時間まで少しあります。まずは簡単な紹介から。」

声を上げたのは、カメラを持った青年だった。彼の名前はユウ。22歳、大学生で天文学を専攻しているらしい。

「えー、あそこに見えるのが月琴岬(げっきんみさき)。灯影湾の中でも特に静かな場所で、ここから見える星空が絶景なんです!」

興奮した様子で語るユウに、リサは少し笑みを浮かべた。

「星のこと、詳しいんですね。」

「マジで面白いんですよ!例えば……」

ユウが話し続ける中、タケルが短く口を開く。

「風が出てきた。そろそろ移動するぞ。」

無骨な彼の一言に、船が静かに動き始めた。リサは心地よい揺れに身を任せながら、次第に日常の疲れが薄れていくのを感じていた。


夜空の幕開け。

やがて船が停泊した先は、月琴岬のそばだった。辺りは漆黒の闇に包まれていたが、空を見上げると、そこには無数の星が瞬いていた。

「すごい……。」

リサは思わず息を飲んだ。その瞬間、日常のストレスが遠ざかり、心が空っぽになる感覚が広がった。

ユウが星座を指さしながら説明を始める。その隣では、無言のタケルが空をじっと見つめている。そして、船の片隅で小さな歌を口ずさむ少女カエデ。その声が、波音と溶け合うように響いていた。

「星って、どこまでも広いですね。」

リサが呟くと、タケルがぽつりと答えた。

「広いけど、自分がどこにいるかは見えるだろう。」

その言葉に、リサの胸の奥で何かが静かに揺れた。


次回予告

リサが初めて灯影湾で星空を見上げた夜。次の夜には、彼女の心に新たな問いが生まれる。海と星空が織りなす物語の幕は、まだ始まったばかり。

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