人生に余白があることの大切さ
中学時代からの最も仲の良い友人。
会社で最も仲の良い同期。
もしその二人の結婚式が被っていたとして、皆さんならどうしますか?
時間は有限で、一人でできることには限りがある。
何に、どう時間を費やすか、それが私たちの人生を作る全てである。
私はこれまで、友人は多ければ多いほど良いと思っていたし、人脈が大いに越したことはないと思っていた。しかし、社会に出て時間の有限さを感じるようになって、人間関係の多さが足枷になることもある、と感じるようにもなった。
時間は有限で、何に時間を使うか。
それが人生の全てであるからだ。
時間には限りがある
先ほどあげた、結婚式の例。このような状況に陥ることは稀ではあるが、似たような「選択に迫られる」ことは数多くあるだろう。
「友人の誘いと先輩の誘い」
「新規の取引先と既存の取引先」
「恋人との時間と仕事の時間」
私たちは、常に「今この瞬間、何に時間を使うか」を迫られる。人間関係が多いということは、それだけ「自分が使おうと思っていた時間」とは別の選択肢が増える、ということでもあるし、時間のバッティングが起きやすいということでもある。
さまざまな経験を重ねれば重ねるほど、”自分にとって大切な時間は何だろう?”と考えるようになり、優先順位が出来てくると思う。私にも、自分で使いたい時間というのがある。
もちろん、もし毎日をだらだらと過ごすことが多く、人生が余白だらけで暇を持て余しているのだとしたら、もっと濃い人間関係を作った方が有意義な時間を過ごせる可能性は高まるだろう。
しかし、自分にとって大切な時間の使い方があるのであれば話は別である。
もし「自分の使いたい時間」を阻害されるような気持ちになるのであれば、それは人間関係の数が多すぎたり、適切な距離感ではないのかもしれない。
適切な距離感に身を置く
必要な時間というのは、人によってさまざまである。
ある人にとっては、映画を鑑賞する時間かもしれない。
ある人にとっては、本を読む時間かもしれない。
ある人にとっては、恋人と過ごす時間かもしれない。
色んな時間の使い方がある中で、私たちは「自分の人生が有意義になる時間」を想定して、選択をする。その選択肢は多ければ多いほど良さそうに見えるが、多いが故に本当は費やしたかった時間の使い方ができていないのであれば、少しずつ手放していく、距離を置くことも必要なのかもしれない。
完全に断ち切る必要はなくとも、適切な距離感に身を置くことは、豊かな時間を使うために必要な行為であると感じる。
人間関係を育むために
逆に、本当に深く付き合っていきたい人間関係というのもある。そして、この数にも限りはある。
例えば、もし大切な人が365人いるとすると、毎日誰かと食事に出かけたとしても、一人にかけられる時間は1年で1回だけということになる。お互いがそれくらいの感覚で十分だと思っているのなら問題はないが、相手が2か月に1回くらいは会いたいと思っていたら、単純計算で5回は断ることになる。
どれだけ仲が良かったとしても、何度も断られると誘いづらくなるもの。逆に言えば、「誘ったら絶対来てくれる人」はある種の安心感があるし、気軽に声もかけやすい。
そしてそういった何気ない時間の積み重ねがお互いの関係性を育み、気がついたら本当に大切な人の一人になっている、ということは往々にしてある。
そのような人間関係を育むためには、ある程度自分の人生に余白を持ち、心の余裕を持っておくことは大切である。
別に、何もせず暇にしておけということではない。いつでも他の予定と代替可能な、一人の有意義な時間を持っておくこと。
それが、大切な人間関係を育むためには大事なのかもしれない。一人の趣味を持つようになり、最近そのように感じている。