今あえて書きたい、あの時堕さなくてよかった、という話
小学校後半の3年間みっちり、朝も夜も土日も、授業と寝る時間以外のほぼ全ての時間を費やしてきた娘のオーケストラの最後の演奏会が終わった。
正直なところ、その翌日に自分がこんなふうに子供のことをnoteに書くとは、妊娠したときには1mmも思っていなかった。
いつかは子供ができたらいいんだろうなとは思っていたものの、私の妊娠は本当に予想外だったため、陽性反応を見た時は、文字通り膝から崩れ落ち、大泣きした。
(母は、妊娠報告をしに来た私を見て、「癌宣告を受けたのかと思った」と言っていた。
今思えば、子供が欲しくなかったのではなく、不安だったのだ。
こんなに未熟な私が親になれるのか。
産んだ後で、かわいいと思えなかったらどうすればいいのか。
まだまだやりたいことがあるのに、子供のために犠牲になれる覚悟なんて全然持てない。
産むからには、ちゃんと愛し、育てなくてはいけない、
という責任の重さと、妊娠を喜べない罪悪感に潰されそうだった。
でもそんな不安をよそに娘はすくすく育った。
こんな私に育てられるくらいなら、いっそ流れてくれた方が、とすら思っていたのに、私がどれだけ泣こうが、つわりで吐きまくろうが、無茶な仕事の仕方をしようが、大した問題もなく育ち、産まれ、「子供への愛情」がなんなのかも定義できないまま、気づいたら中学生だ。
今でも私は当時思い描いていた理想の母親ではないと思う。
お弁当を作り忘れたり、習い事の曜日を間違えたりするし。
でも、本当に意外なことに、今、私には「子供を持ったこと」への後悔はない。
本番前日、娘がずっと演奏したかったという曲(私もかつて高校で演奏した曲)を一緒に口ずさんで、ここが全然吹けないんだよね、と笑い合った。
100人以上いる団員名簿から娘の名前を見つけた瞬間は、なんだか毎回誇らしい気持ちになる。
ソロを吹く前の緊張した顔つきを見れば手に汗を握り、終わってからホワイエに出てきて友達とはしゃいでいる様子を見れば胸が熱くなる。
クラシックに興味がなかった夫が、帰り道に感想を喋っているのを聞くのも好きだ。
私の人生に、娘という登場人物が一人増えたからこそ感じられる一瞬一瞬の積み重ねは、間違いなく、私の人生を豊かにしたと言えると思う。
子育てにおいて、何かを懸念したり悲観していたらキリがない。
日本にバブルなんかきっともう来ないし、夫婦関係だって今は順調でも、いつかどこかで壊れるかもしれない。
でも、娘は今のこの日本の中でも少しずつ成長し、彼女なりの喜びややりがいを見つけ、少なくとも今のところ楽しそうに生きている。
この先、苦しいことや泣いてしまうこともきっとあるだろうけれど、親として私がするべきことは、その時、その辛さの責任を負うことではない。
どんな世の中であれ、彼女が自分で勝手に幸せになれるような人間に育ててあげること、私ができることは、それに尽きると思う。
産みたくない人の気持ちも、こんな日本に産むべきじゃないと言う人の気持ちも痛いほどわかる。
だから、子供を持つべきだとか、子供がいたら幸せだという主張をするつもりは全然ない。
ただ、演奏会が終わった今、悩みながら産んだその後の感情の一部を、ウェルビーイングについて語るこのnoteに書いておきたかった。
昨日、娘は寝る前、わざわざ私のところに来て「ママ、今日はありがとう」と言ってから寝室に向かった。
あのとき大泣きしながらも産む方を選んだ私に、心から感謝したいと思った。