夢幻の砂浜
旅先で、小さな画廊に入ってみた。
昔は雑貨屋だとかの十二畳ほどの、寂れた商店街の小さな店だ。
建物の中は壁一面に絵画が並んでいて、白い砂浜に松が生えた海岸の油絵だった。別に、その絵が特に印象深いわけでは無い。
同じ砂浜がモチーフの絵ばかりが、その画廊にはかかっているのだ。
「絵は全部、私が描いたものです」
初老の白髪髭の店主はそう言って、売り物のコーヒーをサービスしてくれた。
画廊からそう遠くない場所にある砂浜で、幼いころから店主は浜へ遊びに行き、砂浜の絵を描き続けたそうだ。雨が降ろうと、風が強かろうと、熱を出しても這って行ったらしい。
「自分でも良く分からないんですがね……執念を抱くだけの何かが、あそこにはあるんでしょう」
照れ笑いを浮かべる店主と共に絵画を見て回る。成る程、それぞれの松や砂浜は、天候や綱領による表情の変化はあっても、同じ松はどの絵の中でも同じ姿かたちを保ち、砂浜もトレースしたような海岸線を維持している。
それも手癖によってコピーペーストされたわけでもない。一日一日の海岸の表情を切り抜こうと、幾重に塗り重ねられた絵の具がそれを物語っていた。同じ海岸をモチーフに、此処まで手間を惜しまない。まさに執念のなせる技だ。
老人の執念に当てられてか、私はこのシンプルな絵がお気に召した。この絵を買いたい、幾らだい? と尋ねると、
「1億5千万です」
という、店主の仰天するような言葉が返ってきた。冗談だろうと言うと、店主は静かに首を振る。
「いえいえ。この店にある絵、更に倉庫にある数百枚を合わせて1億5千万だと、知り合いの画商に言われました」
さらに目をむく言葉にたじろぐ私は、同じ海岸の絵を数百枚買う人はいないだろう、妥協して個別に売らないかと、説得を試みる。
「この絵は全部揃って初めて意味があるもの。バラバラでは一円にもなりません」
店主の態度は頑なだった。しかし全部の絵を買うには金もスペースも両方難しい。頭を悩ませていると、店主に後ろからそっと肩を叩かれた。
「買えない方向けに、一部貸し出しも行っていますが?」
初回と言うことで体験版は安くなっていると聞き、私は二つ返事で了承した。
旅から戻って数日、初老の店主はワゴン車で私の家に現れた。
リクエストした十枚の絵はイーゼルにかけて貰って、そ前にお気に入りのソファを置いて座って眺められるようにした。
こうして自分の家で静かに鑑賞していると、砂浜の絵の魅力は増々深みを増していく。
松や砂浜の移り変わりを、全体の風景でなくキャラクターとして切り抜くから出る魅力は、素人にありがちな書き込み過ぎて見所が行方不明になる事も無い。長年同じモチーフを描き続けた、店主だからこそなせる技だ。10枚の絵は丁度、ストップモーションアニメのように作用して生を帯びる。
と同時に、10枚でこの絵の物語が終わってしまう口惜しさも、日増しに増えていく。
最早何枚絵をレンタルしても変わるまい。この乾きは絵を全て手に入れ、なおかつこれから店主が描く全ての絵を手に入れ続けなくては癒せない。
果てなく購入を続けるか、それともきっぱり絵の事は忘れるか。通帳を胸に抱きながら、私は悶々とした日々を絵の前のソファで送っている。
店主が絵を引き取りに来る日は、もうすぐそこだ。