十九の終わりに
真っ白い棺に似た箱は小学生には大きすぎた。
十九の誕生日に届を出して三日。棺の中で安物の毛布に包まれ、妹は玄関に置かれていた。なんて声をかけようか、考えるうちに彼女は目を覚ます。
「や、どうも」
平凡過ぎる呼びかけに、妹は笑いもせずに返してくる。
「おはようございます。貴方が私の?」
「兄です。暫くよろしく」
「……」
「なにか?」
「運がいいな、と思いました」
共同生活の初動はまずまずといった手応えだ。
「兄さん」
「なにか?」
「これはなんですか」
使った長靴を洗っていると隣の妹が、バケツの中のじゃがいもを指さしていた。
「ジャガイモだよ」
「でも、白くないです。泥団子みたいです」
「給食のやつは皮を剥いてるんだよ。施設で教えてるだろ」
「……先生が嘘ついてると思ってました」
「ハハ、どうして」
「妹にじゃがいもを食べさせないためです」
「学校では飽きるくらい食えるといいね」
僕もそうだが、施設から出たばかりの子は常識が欠落している。車を認識できずにぶつかっていく子もいて、気の抜けない時期だ。親はどうしたって? それこそ、僕らにとっては絵物語だ。
子育てに親が必要なくなったのはいつからか。子供が母親からでなく、施設から生まれるようになったのは、少ない人口と個人主義を両立するため。今まで僕は親を見たことがない。育児区の外にいるらしい両親の、写真一枚だって持ってない。労働と余暇に励むのが大人。子供の面倒を見るのは政府、相手をするのは僕ら青年の役目だ。
「なら、兄さんは変です」
「なにが?」
五杯目の肉じゃがを頬張りながら、生産者に文句を垂れるとはいい度胸だ。
「ご飯も掃除も、施設の人がやってくれるのに、どうして自分で?」
「細やかな気遣いのできる男はモテるんだ」
「でも全部用意するのは非効率です」
「無駄を楽しむから人生なんだ」
「でも……」
そんなにまずかったかな? 一人でしか食べないとこういうとき困る。
「妹の分だけ施設に頼む?」
「不味いなんていってません」
「じゃあどうしたらいいの」
「ただ……兄さんは」
俯いて、妹は歯切れ悪そうに続けた。
「今楽しいなら、どうして届なんて出したの……出したんですか」
……なるほど、唐突な批難はこれにつながるためか。
「子育ては無駄の頂点、そう思わないかい」
芋を断ち切り、口へ運ぶ。うん、うまい!
「そういえば妹、会った時に運が良いって言ってたけど」
「なにか?」
釣りにも飽きたので、僕は聞いてみた。
「あれどう言う意味? イケメンに面倒見られて幸運ってこと?」
「世のイケメンに謝りなさい。別れても後腐れなさそうだなと、そう思っただけです」
ひでえや。ジーパンに乗った肉を掴まれるといたたまれない気分になる。そういえばヒゲも剃ってないや。どうせ誰にも会わないし。
「こんにちは」
油断していたら出しぬけに話しかけられ、振り返るとそこには近所のお姉さんがいた。それと……小学生くらいの男の子。
「や、どうも」
「今日も頼める?」
「もちろん、喜んで」
「じゃ、よろしく」
お姉さんは男の子を置いて歩き出してしまった。挨拶どころか一瞥もくれない。
「……兄さん、どなた?」
「近所の人。あの子を僕に預けて遊びに行くんだよ」
「どうして兄さんに?」
「学校にも行かずぶらぶらしてるから」
最低限一緒にいる日数は決まっているけど、年六十日っていないほうがいいんじゃ、と僕は思う。男の子は今日も変わらず俯いていた。そりゃそうよ、お前はいらねえって毎日言われてるもんじゃんね。
「ちょっと話しかけてみなよ」
もう一人の人見知りを小突いたらギョッとした顔で振り返った。
「なんだよ、男嫌い?」
「……違う班の人と話すのはちょっと」
「もう班の人はいない」
賢明な妹ならわかっているだろう。
「施設の誰もいない。ここにいるのは妹だけだ」
拳をグッと握って妹は、俯いたまま男の子の方へ向かった。
「あ、あの……少々宜しいでしょうか」
当然だけど男の子は固唾を飲んで身構えた。
「固いよ、妹。人を誘うんだからさ」
「えと、じゃあ……」
妹は解いた拳を、男の子の方に伸ばした。
「一緒に……釣りする?」
「……うん!」
男の子が笑うのを僕は初めてみた。
釣りは僕が教えていた分、男の子の方が上手い。妹と合わせて小さなバケツを埋め尽くさんばかりだ。いいぞぉ、今日の晩飯は小魚の素揚げだ。
「兄さんも手伝ってくださいよ」
「魚を捌くのは僕なんだけどな」
しょうがない、妹の頼みだからな。隣に座って釣り糸を垂らす……と、その前に。
「……少年」
また俯いてもじもじしている男の子に、真っ直ぐ目をみて語った。
「男はね、モジモジしてないでやりたいことやった方がかっこいいぞ」
男の子は爆速で僕の家に駆け込んだ。それでいい、漏らした後始末をするなんて面倒くさくてたまらん。
「フッ……」
「なにか? 妹」
「いえ、男の子って変わらないなって思って」
そして大抵の事情は女にバレている。
「それにしても今の笑い、実に魔性感が出て良かった」
「マショウ……? どういう意味?」
「妹が順調に育っているようで安心だということさ」
そう実に……安心だ。
「兄さんが学校に行かない理由が、よく分かりました」
「どうして?」
「色々なことを誰よりも知ってる人には、退屈でしょう」
「相当に買いかぶられてるな。株価がストップ高だ」
「そんなことありません。施設には兄さんより子供な大人もいました。だから……」
妹は男の子みたいに俯いた。急に子供に戻ったみたいに見えた。
「だから……届も出したんですね」
「……やっぱり、買い被りすぎだよ」
この子に比べれば、僕の悪知恵なんて砂上のアイス棒だ。それをわかったフリで誤魔化す。妹がもう二年もすれば、僕なんて取るに足らない存在になるだろう。
「僕はね、学びすぎたんじゃない。学べなくなったんだ」
「……よく分かりません」
「実は僕も」
どうしてかな、どれだけ考えても分からなかった……
「妹」
「はい」
「人間の本来の寿命は四十歳だって聞いたことある? 十九までに人生の半分は終わって、自分が形どられていく。そこから変わるのは、難しい」
「なんの話ですか?」
「つまり……忘れないでくれってこと。ジャガイモに疑問を持った、釣りを習った、友達を作った。その時感じたことを、一生」
「兄さんが言うなら」
「あぁ……頼むよ」
そうなったら僕は、一生安泰だ。
私が入ってこの家にやってきた、白い棺のような箱は、兄さんにはやや大きすぎるようだ。
「……」
どんなふうに声をかけよう。どれだけ悩むも自由だ。学校には遅れると言ってあるし、施設職員も待ってくれている。兄さんも……起きることはない。
私が中学生になった昨日、兄さんは亡くなった。
入学式を終え(保護者で来たのは兄さんだけだった)、夕飯に呼ばれてリビングに行った時、兄さんはもうウイスキーを煽っていた。届――終生届を出した青年に出される、自殺用の酒だ。
「……バカッ!」
先に手が出た。兄さんは髭のない頬をさすりながら、今まで見たことない虚な笑みを浮かべていた。
「ひどいなぁ……もう一人育てたんだから、あとは個人の自由だろ」
「それを兄さんが言うの? 私の、兄さんが!」
ひどい……裏切られた。そんな言葉が頭をグルグル回って。私も泣きながらグルグル回って、食器棚にぶつかって止まった。見ている兄さんは、笑っていた。
「まあ落ち着きなよ。ゆっくり酒……麦茶でも飲んで」
「なんで……なんでよ……」
「さて……いつ決めたんだったか。僕の兄さんに無視され続けた時? 行きたかった進学校に行けなかった時? 違うな……僕が決めたのはね、あのお姉さんと寝た時」
「寝た……?」
お姉さんと言うのは分かる。いつもうちに男の子を預けてた人。
「寝るってのは……愛する男女の究極到達点と思ってくれ」
兄さんとお姉さんは同じ施設の班員同士で、兄さんはその頃から好きだったらしい。偶然近くに住んでるのが発覚して付き合い出した。そして高校に入って三ヶ月頃、彼らは初めて寝る、と言うのやってみた。
「男にとっては念願だ……でも、僕が思ったのは、なんて面倒だってひどい感想だった」
触れる肌の暖かさが面倒、かかる鼻息が面倒、腕にかかる重み、光一つない暗闇、全部全部全部。そう思ったら、兄さんの世界は急に色褪せていった。
「他人と過ごして感じる面倒と、幸福が釣り合わない……そう思うようになった」
「……」
「ここには、家族っていう最低限の枷もない。あまりに自由が過ぎて、他人がいる不自由に僕は耐えられない……」
「じゃあ私は……ただの重荷……?」
「……重荷なんて、言わないでくれ……君は、僕の世界に色を戻してくれた。救いなんだ」
「だったら――」
笑顔が崩れていく顔を兄さんは手で覆った。
「でも、ダメだ……! 君が成長するたび、出来ることが増えるたび、僕なんていなくっていいって、そう思うと……どんどん、愛情が薄れていく……」
「私、ここにずっといる」
「どう足掻いたって、僕は忘れるよ。だってさぁ……お姉さん、好きだった人の名前だって、もう思い出せないんだ!」
覆う手から上げた兄さんの顔は涙でぐずぐずだった。
「君を覚えているうちに、全部終わらせたい……ごめんよ」
ごめん……だって。ずるいよ、一人だけ逃げるなんて……
怒り、恨み、憎しみ。募る感情に任せ私は台所に向かう。包丁を取り……
……それを流しにおいて、忘られていた刺身の盛り合わせを兄の前に置いた。
「……ご飯に、しようか」
「そうだね……」
それから、いただきますも言わずに私たちは食べ出した。施設に用意させた、特上のお刺身のはずなのに……飲み込むたび喉が痛む。
「兄さん、いつか約束したよね」
「……なんだっけ」
「私、忘れないよ。兄さんの料理が好きだったこと」
ジャガイモについて聞いたこと、釣りを教わったこと、友達の作り方……
全部まとめて、涙と一緒に飲み込んだ。
「同志姉妹、そろそろ宜しいでしょうか?」
物思いに耽るうちに随分経ったようだ。職員に起こされ涙を拭って棺の側から離れる。顔の半分が濡れてもあの人が起きることはない。
どうしてなんだろう。最後の最後で、あんな仕打ちを受けたのに……こんな終わりしかないのかな……兄さん。
「……あ、同志。すみません、最後に一つだけ」
「構いませんよ。」
土壇場で閃いた。距離をとってくれたけど、私は聞かれないよう兄さんの耳元に囁いた。
「じゃあね、父さん」
これで、よし。生きている間にそう呼ばれなかったのを、せいぜい天国で恨むのだ。