恐怖(怖さ)は、克服しなくてはいけないのか?
最近だいぶなりを潜めてきましたけど、まだたまにお見掛けすることもある
「恐怖を克服してこそ、その次がある」
というスポ根系ドラマや小説で聞きそうなセリフですが、はたしてこれはほんとでしょうか?
恐怖という感情は、本来、自身を守るための本能的な感情であると考えられます。経験、学習によってこれをある程度克服することはできるかもしれませんが、結果、大きな危険を身近なものにしてしまうという一面も存在します。
もちろん新しい事やたまにしかしない事については不安感、恐怖感などが出て当たり前です。そして正しく恐怖感を克服できればさらにその先に進むことができるのも事実です。
問題はその克服の方法です。
克服するために客観的な行動(自身の活動能力を上げるためのトレーニングや、自身の置かれている状況の客観的な分析などによって、萎縮や危険の過大評価の排除、道具などによる安全性や活動能力の向上)が伴う場合は概ねプラスとして機能します。
これはまさに克服といえるものです。
逆に「いいから行け。慣れろ!」という、根性論的な後押し(強制)は、基本的な解決策が全く提示されていない状態です。そのまま進めということですから、怖さは増大する可能性が高くなり、萎縮や活動能力の低下などが出てくるかもしれません。
あるいは、根拠のないまま「だいじょうぶ!だいじょうぶ!」などという暗示に近い安心感のかさましも、ときに潜在的危険の増大を招きます。
これは克服でなく、恐怖を見ないふり、あるいは潜在させたまま飲み込む状態といえるでしょう。
結果的に、このまま事故に遭遇せずにこの段階を通過してしまう(実際にはこのケースは非常に多い)と、根拠のある安全性を高めることなく、「やれば大丈夫」「いいから慣れろ」などの精神論だけに終始する可能性があります。
(体育会的な強制の中には、安全策まで含めて強制されることもあるようで、その場合はある程度の安全性の向上に寄与しているとも考えられる。例えば「理由はいいからこれをきちんとやっておけ」というような指導。のちの経験によってその理由を理解できることもありうるわけです)
一般的に体験型商業プログラムとして販売されているものは数時間程度までの短時間に完結するものが多く、その時間内にこのような恐怖感を払拭して参加させることが難しい場合状況もありえます。複数人の同時参加型のプログラムなどでは、一名の恐怖感によってグループ全体の安全性(行動能力と言い換えてもよいでしょう)に変化が出てきます。あるいは安全に進行するために全体のプログラムが大きく遅延する可能性が高くなるのでこれについて、プログラム提供者はどのように対応するものかを考えておく必要があります。
安易に、ここで根拠のない「だいじょうぶ」を提示してしまうことは、引率者側の責任の放棄と同義です。
もちろん「だいじょうぶ」の言葉の裏付けがあるのであれば問題ありません。
あるいは、参加者側の思考としては、周囲に合わせる(空気を読む)という動機によって、恐怖感をあえて飲み込んでそのまま参加する状況も見受けられます。(仲間での参加、家族での参加などにおいて、「怖いから一人だけ参加しない」というのは表明しにくい)
「怖い」という感情は非常に重要な情報です。決して恥ではありません。参加側も遠慮せずに「怖い」という感情を(できれば冷静に)リーダーに伝えてほしいと思います。
引率者が存在するようなプログラム、あるいはグループであれば、そのような兆候を早急に発見し、なんらかの対応を講じる能力が必要となります。
親子であれば、保護義務のある大人がしっかりとここを見据えるべきところです。家族で遠慮や手加減がなく、大人は軽々できるものについてはなおのこと、子どものこわいをちゃんと受け止めてあげる必要があるのではないでしょうか。
恐怖感、あるいは怖さというのは、人間が危険を回避するための原初的な警報の一つです。
本人も周囲の人も、無理に押し殺したり見ないふりをしたりせず、きちんと向かい合って適切に乗り越えるようにしましょう。
どうしてもその場での対処が無理なようであれば、いったん退いて、準備からやり直す。あるいは中止するという判断も必要です
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