母親のこと
「大脳皮質基底核変性症」と診断され、日に日に人間としての機能が失われていく父。その父を文字通り24時間つきっきりで看護してた母親のことも少し書き残しておきたい。
自宅での介護
2022年の元旦は家族を連れて実家に戻り、親父に孫たちの顔を見せることができた。もうベットから自分で体も起こせず、呂律の周りもおぼつかなくなった父だが、母に促されてようやく片言で「ウレシイ」と言った。
その二日後の三日、真夜中に母親から食べ物を喉に詰まらせて咳き込み、熱が下がらなくなったと連絡が入る。夜が明けて4日の早朝、急いで実家に行ったが、その時にはもうだいぶ落ち着いた様子。念の為にと、かかりつけのお医者先生が自宅にきてくれた。
簡易式のレントゲンを使って簡単な検査を行った結果、誤飲性の肺炎だとわかる。すぐに救急車を呼び、いつも検査でお世話になってる大きな病院に搬送される。
そこでも検査をし、即入院となった。たまたま親父を「大脳皮質基底核変性症」と診断してくれた先生が在院されており、話を聞く。
この病気の特性で、やがて自分で食べ物を食べられなくなることは前から説明されていたので、ついにその時がきたと思ってください、とのこと。
どうすることもできず、私と母親は親父を病院に預けて、そのまま家に戻った。世界に蔓延している感染症のせいで、それから2カ月後に転院するまで親父の顔を見ることができなかった。
自宅に帰るか、そのまま病院に残すのか
先生から肺炎が収まるまでは入院させるが、その後どうするのか家族で決めるように言われた。
自分で食事をとることができなくなった親父を自宅に連れて帰るには、24時間高カロリーの液体をカテーテルを使って補給し続けるしかないと言われた。しかし、自宅で日中は母親一人で管理するのは難しいので、療養用の施設に入れて面倒を見てもらう方がいいのでは、と言われた。どちらにするかはあくまでもご家族が決めること、と。
母親は数年にわたる看護で相当疲れきっていた。父親がこんな状態になるまでは、どちらかというと母親の方がよく「足腰が痛い」とか体調がすぐれないと、よく医者に掛かっていたが、親父の介護が始まると自分のことよりも父親のことを優先するようになっていた。
昔から「人の世話を焼いてる方が体調がいい」とよく冗談めかして言っていたけど、やはりストレスは相当溜まっていたと思う。
母親と二人で実家の、親父を介護してた部屋で話し合った。正直、母親の気持ちを優先したいと思ったが、本当にどちらを選択しても厳しいことになるのはわかっていた。
コロナ禍ということで一旦入院したらお見舞いや面会もできない。もし万が一急変したらそのまま病院で寂しく息を引き取ることも覚悟をしないといけない。
だからといって自宅に連れて帰ってさらに介護に体も気持ちも持っていかれるのも難しい。せめて私が自宅で仕事をするような自営業であればまだ自由が利くが、会社勤めのサラリーマン故、たとえ同居してても難しいだろうな、と感じた。
母親は、本音では親父には自宅に帰ってきてもらって、家でゆっくりして欲しいと思っているのだろうが、本人には決めきれるものではなかった。当たり前だと思う。
で、私は母親の体調をおもんばかり、断腸の思いで「そのまま、できるだけ病院で面倒みてもらったほうがいいのでは?」と声をかけた。
母はじっと私の顔を見、目にうっすら涙をうかべて「そやな」とぼそっと吐き出した。
近くにいるけど会えない家族
親父の長期入院が始まった。母親は週に1回、洗濯物の交換と紙おむつを持って、片道20分弱をかけて病院に通っていた。まだ徒歩で通えるのは不幸中の幸いだった。
私が一緒に行くときは車で行けるので、できるだけ私の休日に合わせてくれるように伝えていたが散歩がてらにと、歩いて通っていた。毎回、受付で荷物を渡すだけで親父には会えないのに。
そのうちに母親に自由な時間が増えればまた、手芸教室に通ったり、町内会の集まりにも参加して、ストレスが発散されるかと思ったが少し違ってた。病院に行ってもどうしょうもないことが分かり、母親も体調を崩して寝込む日々が続いた。本人が言う通り、「人の世話を焼いてる方が体調がいい」は本当だったのかもしれない。ある時、母はいつもの通り荷物を取りにいた看護師に「写真だけでも取ってきてくれ」とお願いしたらしい。その看護師は快く母のスマホを受け取ると、病室の父の写真を撮ってきてくれた。その写真をうれしそうに私に見せる母親の姿がとても不憫でたまらなかった。彼氏の写真を見せる少女の嬉しさがさらに空しく感じられた。
思い返せば子どもの頃から、いつも自宅には「家族以外の他人」が暮らしていた。親戚の子どもを、今でいう学童保育みたいな感じで預かったり、高知の田舎から親戚が就職で大阪に出てくれば、空いてる部屋や私の部屋に居候させたりしていた。私が高校生の時、自宅近くに店を借りてお好み焼き屋を開いたりもした。近くのパチンコ屋のお客さんが常連になったりと中々繁盛していた。地元の主婦をパートで雇ったりしたが常に母親が店を切り盛りしていた。立ち仕事がしんどくなってお店をやめるまで10年以上、みんなに親しまれたお店だった。親父や独身時代の私も手伝ったりしていた。