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家族と家族じゃない人の違いはなんだ


家族ってなんだろう。

ふとした瞬間に、いつも頭をよぎる。

先日、大学の友人の結婚式があった。赤の他人の二人が家族になる。不思議だ。亡くなった母を思い出すときもそうだ。僕たちはいい家族だっただろうか。

「家族とは何か」僕はずっと考えているが答えが出ない。あなたにとって家族とはなんだろう?

大切な人?

血が繋がっている人?

一緒に暮らしている人?

どれも正解だし、どれも間違いだ。血が繋がっていないけど、家族と言える人達がいる。一緒に暮らしていないけど、家族と言える人達がいる。家族も大切だけど、きっと友達も大切だ。きっとそんな単純な言葉では表せないものなのだろう。

広辞苑にはこうある。夫婦の配偶関係や親子・兄弟の血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団。

大辞林にはこうある。夫婦その血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。

確かに間違いではない。”いわゆる”家族である。でも僕はこんなありふれた辞書的な答えを期待していない。真の家族関係とはどういうものなのかを知りたいんだ。

謎はますます深まる。

そんなとき、あるイベントで熊谷晋一郎先生に出会った。

熊谷晋一郎先生とは、自立は依存先を増やすことであるという名言を述べた当事者研究の第一人者である。彼は、家族の定義について、こう言った。

「家族の関係は、期待どおりというより予測どおりに近い」

これは、息子に有名な大学に行ってほしい、親に専門学校の学費を出してほしい、娘に立派な大人になってほしい、家族間で様々な期待をお互いにかける。でも期待どおりにいかないこともある。期待どおりにいかないことの方がむしろいいかもしれない。ただ、家族の関係は、期待よりも予測の方が大切だったりする。有名な大学に行ってほしいが息子は大学に行かずに自分の好きな道を選ぶだろう、親に学費の支払いをお願いしたらきっと拒否するだろうけど、夢は応援してくれるに違いない。といった具合だ。期待どおりに行くことも、期待が裏切られることもお互いに結果がある程度わかってしまう。そんな関係を家族における信頼というんだそうだ。

これは真理に近い。

僕は思った。

「たとえ期待が裏切られたとしても、その人と一緒にいることを選ぶのが、家族なのではないだろうか」

犯罪を犯したとしても関係を切らない。

たとえ一年後に死ぬとわかっていても一緒にいる。

どこか遠くに離れてしまっても愛し続ける。

それが家族なんじゃないだろうか。

僕はそれをコミュニティにも適応したい。

僕は以前、マズローの5大欲求で一番大切なものは、コミュニティであり、社会的処方がこれからの医師の役割になると言った。ありのままの自分を受け入れてくれるコミュニティこそ真のコミュニティである。どんな状態の自分になってもそこには居場所があるのが真のコミュニティだ。ただ自分の能力や実績によって左右されるコミュニティではない。

誰もがこんなコミュニティを持てたら、本当に幸せなんじゃないだろうか。

「じゃあ、真のコミュニティと家族との違いはなんなんだ!」

と僕は叫びたくなる。

僕はコミュニティに恵まれている。辛い時に支えてくれた人たち。能力だけじゃなく、実績だけじゃなく僕を見てくれている人がいる。あの人も、この人も、僕にとって大切な人だ。

大切な人だけど家族じゃない、そんなこと嫌だ。わがままなのかもしれない。でも……

「だから、家族と他のコミュニティの区切りをはっきりさせなくてもいいんじゃないか」

そう思った。

僕にとっての家族の定義は、「たとえどれだけ期待が裏切られたとしても、その人と一緒にいることを選ぶこと」だ。

だとしたら、その定義に当てはまる人はみんな家族にしてしまおう。

僕が想像のつかないことをしてしまったとしても、犯罪を犯しても、意識不明の重体になっても、亡くなったとしても、僕は君のそばにいるよ。そう言える人は、僕にとって、みんな家族だ。

きっと、僕はこれから家族が増えていくはずだ。いつか結婚して、子供ができて、”辞書的な”家族も増える。でもそれだけじゃない。血は繋がってないけど、何かあったときでも味方でいるよっていう関係性の家族も増えていくはずだ。

家族を増やす。

それが、僕の人生のひとつの目標だ。

(photo by hiroki yoshitomi

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守本 陽一
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