批判されたとしても僕が文章を書くことをやめない理由
「なんでそんなにSNSや記事を書いたりしているんですか?」
とよく聞かれる。
そういう場合、大抵続いてこう聞かれる。
「敵作ったりしちゃいませんか?」
答えに悩んだ末に、僕は「そうですねー。確かに色々言われることはありますねー」と答えると、聞いてきた方は、色々言われるのにどうしてこの人は記事書いてるんだろうとますますいぶかしげな顔をする。
確かに発信していると、批判されることは多いし、悪目立ちする。あいつは…って言われることもあるし、SNSで批判的な言葉が並ぶこともある。でも、それ以上に、発信することで得られるものは多い。だから僕は発信し続けているし、これからも発信するんだ。
アウトプットするとインプットの加速度が違う
講演の後に、必ず一つ質問するようにと言われると、講演を一生懸命に聞かないだろうか?文章のアウトプットでも同じことが言えると思う。誰かに伝えなきゃと思って言語化するには、しっかりと情報をインプットして、自分の中でまとめなければならない。
情報の質が良くなければ、伝えることもないので、日常生活の見方が変わってくる。
「ああ、この建築って病院にあったら素敵だなぁ」とか「この患者さんが納得してくれなかった理由ってなんだろう」と考え始める。ただ徒然に日常を過ごしているだけではなく、日常を考えるようになるのだ。インプットできたら、次は情報を抽象化してまとめる。中途半端に情報が散乱していても相手に伝われないし、何より自分の納得感がまったくない。逆に情報をしっかりまとめていると、相手に伝わるし、自分の中で腑に落ちる。言葉に乗せて発信しなきゃと思うと、良質なインプットが増えて、物事を抽象化するスキルが上達する。アウトプットすると、いいことが多い。
発信していると同じ思いを持った人が周りに集まる
インプットの質が良くなっても、発信するコンテンツ次第ではやっぱり敵を作りかねないことに変わりはない。自分の意見を言うと、反対の意見の人はやっぱりいい気分はしないと思う。そこまでリスクを負ってでもなぜ発信するのか。
それは、強固な仲間、想いをともにする人が集うから。
「文章読んで泣きました」
「私も救われた気がします」
「もりもんのような考え、僕も持ってて仲間探してたので嬉しいです」
ブログのコメントにはポジティブな言葉が多く並ぶことも少なくない。以前僕は、社会を変える文書はありったけの想いがあればいいと言った。まさにそのありったけの想いを込めて文章を書いていると、心動かしてくれる画面上の向こうのあなたがいて、共感してくれる。今、僕のリアルワールドの周りには同じ思いの人は少ないかもしれないけど、ブログを読んでくれているみんなは想いを共にしてくれている。もしかしたら、仲間になって一緒にアクションを起こしてくれるかもしれない。そんなポジティブな想いが人を集めてくる。だから僕は文章を書き続ける。
それでもやっぱり、傷つく人がいる。それは理解しておく。以前、soarのイベントの中でLGBTコミュニティのやる気あり美の太田さんが、「傷つけないことは無理だから、せめて誰が傷つくか理解しておく」と言っていた。この情報を発信することで傷つく人がいることは理解しておくことで、傷つく人に最大限のリスペクトをしつつ、本当に発信を届けたい人たちに渾身の想いを届けることができるんだと思う。
僕は今どんな想いを届けたいのか。
僕が今発信している媒体は主に6つ。note、HEISEI KAIGO LEADERS、日経メディカルcadettto、Newspicks、Twitter、Facebook。それぞれの使い分けとしては、こんな感じだ。
note(ほぼブログ)
自分の想いを言語化して抽象化する場(医療、介護に限らない)
HEISEI KAIGO LEADERS(2記事)
介護関係者に向けて僕が思っていることを伝える場
日経メディカルcadetto(7記事)
医療関係者に向けて僕が考えていることを伝える場
医療系ニュースに対する自分の考えの確認の場
ひたすら想いを言語化する場
近況を友人に報告する場
うち、しっかりと想いを伝えようと思って使っている媒体は4つ。Twitter、note、HKL、日経メディカルcadetto。この順で具体的事象をしっかり抽象化して言語化して行っている。Twitterは日々の暮らしの中での気づきを含めて、想いをひたすら発信することで、感性的な部分で共感してくれる人を探している。noteはTwitterでの気づき、想いの深堀り。2000字程度の文章でしっかり言語化して、さらに抽象化する。日経メディカルとHKLは、探り中だけど、専門職に、抽象化した概念を具体化して届けたい。そう思っている。
6つの媒体で一貫して届けたい想い
そこまでたくさんの媒体を使って、届けたい想いってなんのか。
それは「医療の再定義」。
今の医療の定義では、医療で救えなかった患者とその家族に対して、医療は敗北したことを意味する。でも本当は残された家族や救えない患者に対しても納得感を醸成していくこと、それも医療の役割かもしれない。普段の生活の中で人がコミュニティに支えられるような環境づくりを手助けして健康を醸成することも医療の役割かもしれない。そういう医療の役割をただ患者に手術や薬剤投与を行うだけではない新しい医療の役割を考えていきたい。
一緒に考えてくれる人がこのnoteを見ていることを祈って。
(photo by hiroki yoshitomi)
★noteで記事にする他に、Twitterでつぶやいたりしています。