人口透析と畳。
父はまび記念病院で人工透析をしていました。
発災直後のパニックの中でした。助けが必要だと避難所にいた知人を通して行政に訴えてもらいましたがどうにもなりません。
NTTも被害を受けていました。携帯電話はつながりにくかったです。
心配して電話をくれた県外の親戚が、消防署に相談してくれました。
救急車で倉敷中央病院に行くようにと言われました。
道が崩れたり塞がっていて通れる道は北へ向かう倉敷中央病院とは反対方向の新本ルートだけです。新本方面から救急車が到着して、新本から倉敷中央病院に私と父を時間をかけて運んでくれました。
沢山の方が大変な思いをされている時に、台数の限られた救急車を父1人の為にお願いしても良いのだろうかと少し迷いがあったのを覚えています。
倉敷中央病院では、透析患者の情報を集約して、その後、近隣のクリニックなどに患者の振り分け作業が始まりました。最後に人工透析をしたのはいつだったのかで連絡の来る順番が決まります。
父は被災する直前に人工透析をしていたので、連絡は発災から四日後でした。四日間待つことになり、体が苦しかったのか、父は当たり散らしていました。すぐに、振り分けられた中庄のクリニックにタクシーで向かいました。倉敷市内の親戚の家にお世話になりながらタクシーで人工透析に週に3日、クリニックに通う生活を続けました。
写真は、数カ月後、まび記念病院での人工透析が始まったので父が自宅に戻った時の写真です。
まび記念病院はある程度復旧したのですが、父の家はまだ床もなく、石灰のまかれた土が見えており、父の部屋も住める状況ではありませんでした。床上50センチの被害のあった家です。
父はしばらく脱衣所に住んでおりました。その間に、父の部屋1部屋だけ、知人が紹介してくれた大工さんになおしていただきました。
私は、町内の妹の家の姪の部屋で寝泊まりしながら片付けをしていました。
もう1枚の写真は、家のリフォームをしている時期、やっと畳が入った箇所に、猫なのかタヌキなのか、どんな習性なのかも分からない生き物がマーキングをしてしまいました。床がないので生き物が入り放題です。
そこは被災前は坪庭でした。リフォーム会社のすすめで坪庭から琉球畳に変えました。
ちょっと良い畳です。このシミはやっぱり傷つきます。こういった悲しい現実が少しずつ積み重なってしんどいなぁと思う事も色々ありました。