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祖母のいなり寿司
母方祖父母と同居していたので、鍵を持ち歩く習性がない。
更に言うと、生家には“施錠”という文化がなかった──というのはやや言い過ぎか。家族のなかで“玄関を施錠しなければならない”と意識していたのは祖父一人だったように思う。
私が大学生時代に住んでいた離れなどは、そもそも玄関ドアがぶっ壊れていて、24時間誰でもログインフリーのイカれたスポットであった。更に不運なことには生家には塀がなく、警官からは「お宅の庭は路上と同じ扱いになる」とまで言われる始末。当然のように闖入者は在った。庭にも、家にも、離れにも。しかし未だに鍵を持ち歩く意識に乏しく、“子ども部屋おばさん”の私は時として“庭おばさん”になる。
不幸中の幸いは、おばさんになるやならざるやのタイミングで生家を処分したことだろう。今住んでいる家には塀があり、私が家族の起床を待って庭でChillしている姿は差程目立たない。
庭おばさん私は2025年にもなってまだ使っているiPhone11proが外気に負けないことに感動しながら、決して締め出されることのなかった幼少期に思い馳せる。
離れほどではないにしろ、母屋もまあ施錠が甘かった。
母屋の主たる祖母は大正産まれで、口癖は「昔はこのへんはみんな田んぼだった」である。
祖母は防犯意識も銭勘定も緩い、様々な意味でおおらかなひとだった。私にとっては優しくてユーモラス、大好きな“おばあちゃん”だ。
母親が病弱だったのもあり、私はほぼ祖母の手で育てられた。
幼稚園や学校から帰ってくると、私は一目散に祖母の部屋へ向かった。祖父の浮気癖で少し心を病んでいた祖母は、買い物の時以外は部屋の外へ出なかったからだ。
母屋は三階建てのマンション様になっていて、家族は皆その無駄に広い家のなかでバラバラに暮らしていた。なので“祖母の部屋”は2LDKのそれなりの広さで、外に出る必要がないといえばなかった。祖母が家族全員の家事を担当する兼ね合いもあって、祖母の部屋は我が家の中枢でもあった。
我が家唯一のセキュリティである鉄製のバカ重い扉を開いて、右手に三つ並んだ部屋の真ん中を訪ねると、祖母がベッドに寝そべって“みのもんた”を観ている。帰る道々で摘んだヤグルマギクやタンポポを手渡すと、祖母はとても喜んだ。
祖母はプレゼントを貰うのが上手なひとだったので、私はプレゼントを贈るのが好きになった。
祖母には様々な美徳があって、料理も決して不得手ではなかったが、何故かいなり寿司を作るのが下手くそだった。
小学生の孫娘のために、祖母は殆ど毎日いなり寿司をオヤツに作り置きしてくれていた。
甘く煮付けたお揚げに、はち切れんばかりに酢飯が詰め込んだ立派ないなり寿司だ。成人女性の拳とほぼ同じ大きさのいなり寿司をカレー皿へ山盛りに積んで、ラップをかけてある。勿論家族五人の分だ。しかしあまり美味しくないものは家族の手も伸びづらく、私と祖母ばかりがそのいなり寿司を食べた。
酢飯はただ酢と砂糖で塩梅されているだけで、何も入っていない。
お揚げは甘くて美味しいが、酢飯の量が多すぎる。
いなり寿司を食べているのか、酢飯で作ったおにぎりを食べているのか分からない有様で、幼い私は祖母と一緒にいなり寿司を食べながら「あんまり美味しくないな」と思っていた。尤も幼いながらにいずれ食べれなくなるのは承知していて、当時にしては一口一口大切に食べていた記憶がある。
様々な病のなか、私が成人するまで永らえた祖母は、いつも薄暗い部屋のなかで私の帰りを待っている。
生家を売り払ってしまうまで、私は窓の少ない祖母の部屋が、その薄暗さが好きではなかった。2LDKの広さがありながら、祖母の部屋からはアスファルトに覆われた中庭か、ジメジメとした裏庭しか見えなかった。
指は茶色いながら、祖母は花が好きだった。
本当はたった数輪のヤグルマギクやタンポポではなく、色とりどりの花々が見えるところへ一緒に出かけたかった。
いなり寿司を食べる幼い私に、祖母は「おばあちゃんはもうじき死んでしまうから」と囁きかける。
どこのいなり寿司も、祖母のいなり寿司より小さく美味しい。
でも、どこのいなり寿司を食べても、あの頃ほどには幸せではない。