あやまりの多い人生
「ありがとうって言って」
ここ数か月で、パートナーから1番言われる言葉になった。
私はこれまで、謝ることが多かった。
職場はもちろん、プライベートでもとにかく謝る。
なぜなら、謝ればなんとかなると、軽い考えがあるからだ。
しかしそれ以上に、もう口癖と言うか、自分を守る盾の役割として「謝る」を身に着けてきたような気もする。
謝る時は誤る時だ。つまり、間違えた時。
私にとって間違えるとは、例えば相手の期待に沿えなかった、相手の求める言葉を掛けられなかった、相手の機嫌を損ねてしまった、嫌な思いをさせてしまったetc.
書きながら情けなくなるが、ほとんどが私の思い込みによるものだ。
相手がどう思っていようが、何を感じようが、そんなことは関係なしに、とにかく自分を守るために自分勝手に「ごめんなさい」と口にしている。
謝られた相手がどう思うか、何を感じるかも分かっていながら。
もちろん事実として、私が失敗した時や完全に非がある場合は別である。
それはもう誠心誠意込めて全力で、「これ以上怒らないで!」という願いを込めて謝罪する。
しかし、自分勝手な思い込みからの「謝り」は、相手に疑問や罪悪感を押し付けるものだ。
もっと言うと、謝った側からのこれ以上の追及はするな、という一種の拒否、拒絶、本来自分が処理するべき感情を押し付ける攻撃のようなものだとも思っている。
あやまる と あやまる
『あやまる』をいつもお世話になっているweblio辞書で調べてみる。
また、将棋用語にも【謝る】があり、これは『相手の攻めのほうが自分の攻めより厳しいことを認め、仕方なく守ること。』[参考:屈服]
とのことだ。
語源なども書かれていたがそこは割愛し、改めて見ると同じ「あやまり(る)」なのに意味が全然違う。
しかし、「誤る」から「謝る」と奇妙に繋がっている。
相互関係とまでは言えないと思うが、なんだか面白いというか、皮肉っぽいなあと思った。
全てそうだとは思わないが、組織での「あやまり」は一体感を強め、個人での「あやまり」は孤独感を強めるような感じもする(もちろん、誤り・謝罪に反省はセットになるが)。
なので、どちらも必要な「あやまり」であり、それによって様々なことを学習し、人生経験を深めていくのだろうな。
個人情報漏洩や人を貶める失言などの誤りは少なくあってほしいが…
ただ、どちらも多すぎる人生は避けたい。
改めて
改めて、私はこれまで、謝ることが多かった。
しかし、もはやそこに気持ちが入っているのかないのか、どういう意味で使っているのか、こうして考えてみると自分のことなのに分からない。
ここ数か月の「あやまり」は、口癖のように、合いの手のように、軽いものもあれば、拒絶や拒否、贖罪としての重苦しいものもある。
しかし、どちらかというと後者の方が重みがある分記憶に残りやすく、よく言っていいるなあと振り返る。
私が謝ると、パートナーは「ありがとうって言って」と言う。
そういわれること自体がありがたいことだと思う。
が、同時に自分の謝罪を受け入れてもらえない、これまで学習してきた乗り切り方が通用しない、と混乱もする。
人との関係としては、謝罪より感謝の多い方が健全健康で建設的だ。
でも私はひねくれ人間なので、自分に都合が悪いことがあると、よくクソッタレ!と思うし、思いながらあやまっている場合もあれば、
偏った認知による自己否定や情けなさ、相手に対して本当に申し訳ないという思いからあやまる場合もある。
何にでも感謝します、という人は、どのようにしてその境地に至ったのだろう?と疑問を抱くし、うがった目で見てしまう。
何にでも感謝するには、それこそ一生分の時間をかけても難しい気がする。
ただ、これまで過ごしてきた中で確実に感謝する経験も沢山あった。
それこそ、直近だと初投稿に「スキ」?をしてくれる?読んでくださる方がいた?のは分かりやすい感謝だ。
まずはこれまでの経験を振り返り、あやまりではなく感謝の言葉を抵抗なくすんなりと出していけるよう心がけようと思った。
以上です。
おわり。