海外留学後の進路は?留学で働き方やキャリアの考え方が変化した理由〜STORY 想いを紡いだ先に④〜
こんにちは。株式会社Liberty代表 三上結香(MIKAMI, Yuka)です。
非常事態宣言が発表されて数日が経ちました。家には寝に帰るだけだった毎日から、急に家にいる時間が増えて少々戸惑っている今日この頃です。
さて、前回は、大学に入学し、人見知りだった私が世界学生環境サミットin京都実行委員会に入ることによって仲間ができ、遂には留学に行くことを決意したことを書かせて頂きました。
自分から動かなきゃ何も始まらない
2009年2月、サミットの仲間に見送ってもらい、彼氏にお別れを告げていざアルゼンチンの首都・ブエノスアイレスへ。家は、留学先から送られてきた資料を参考にして決めたホストファミリーで、事前にメールで家族写真をたくさん送ってくれるような素敵な老夫婦の元に決めました。
トルクアト・ディテラ大学(Universidad Torcuato Di Tella)はブエノスアイレスのベルグラーノという地区にあり、政治学や経済学では有名な私立大学です。ハイスクールみたいな規模だったため、留学生別科がなく現地の学生と一緒に学べることを利点に感じ選んだのですが、スペイン語をお遊び程度にしか学んでいなかった私は初日から苦労することになりました。
ディテラ大学へのアジアからの留学生は私だけで、アメリカやヨーロッパからの学生は共通語である英語を使って会話をしていました。私はまた人見知りを発揮して、声をかけることすらできず、観光に行く予定やパーティーをする予定、周りが次々と決めていく予定に追いつけず、空気を読んで笑顔を振りまいて、なんとか最後の最後に「ねぇ、どこに行くの?私も行っていい?」の一言を振り絞るので精一杯でした。
このままではマズイと思い必死に勉強した結果、スペイン語を話せるようになっただけでなく成績はAランクを取得、ボランティアや課外活動にも励み、2学期には新たに来た留学生もサポートできるようになりました。どのように勉強したのかは今回は省略させて頂きますが、1年間ずっと言い聞かせていたことは、「自分から動かなきゃ」でした。待っていても誰かが声をかけてくれるわけではないし、待っていても友達ができるわけではない、待っていても語学が上達するわけではないし、待っていても留学生活が充実するわけではない。主体的に行動したことが全て結果につながったのだと思います。
日々の生活から考えさせられたこと
大学生活とは別に、アルゼンチンでの生活を通して得たものも多くあります。到着と同時に気づいたことは、路上で物乞いをしている人が多いということでした。私が住んでいた家のすぐ近くにはカビルドという大通りがあり、左右両脇にずっと物乞いの人たちがいるのです。赤ちゃんから御老人まで、健康そうに見える人から手足がなく本当に痩せ細ってしまっている人まで、男女関係なく並んでいました。また、車で走ると、赤信号で止まった際には新聞や花を売り歩く子供たちにも出会いました。夜、カフェで友達とお茶をしていると周りに子供たちが集まってきて、必死で花を買って欲しいと懇願されるのです。
日本では見ない光景に最初は驚き、こういう表現が良いのかどうかは分かりませんが、貧富の差、収入の格差を目の当たりにした私は、何かできることはないかと自然と考えるようになりました。
アルゼンチンでは警察は機能していない、とよく言われます。ズボンのポケットを切られて携帯が盗まれたり、レストランでご飯を食べている隙にカバンがひったくりにあったり、大学でも在学中に2回強盗が入って金庫が盗まれるという事件があったくらい、治安が良いとは口が避けても言えない状況です。日本にいるとつい「警察がなんとかしてくれる」「国がなんとかしてくれる」と思ってしまいそうですが、アルゼンチンでは「自分の身は自分で守る」し「国や政府に頼っても何も解決できない」という考えが浸透していて、私も自然とそのように考えるようになりました。豊かに生活をするためにはまずは自立する必要があり、明日、明後日の直近ではなく未来を見据えて稼ぐ力をつけることが大事だということを学びました。日々物乞いをしている方々に対して何かできることはないだろうか、という答えに対しては、私が何かを直接施すのではなく、それぞれが経済的に自立していくことを意図する必要がある、と漠然と考えるようになりました。
進路は?夢は?「わからない」と答える日本人
留学中に、帰国後の進路についても考えるようになりました。本来ならば目標ありきの留学だと思うのですが、何かしら日常を変えたい!という理由で来てしまった私は、その後の進路について全く明確ではありませんでした。現地の友達や留学生仲間に「大学を卒業したらどうするの?」と聞くと、大学院へ行く、世界的に有名な大手メーカーへの就職が決まっている、再度留学する、など進路が明確で、「なぜそれを選択するの?」と聞くと、「幸せになるため!」と当たり前のように返って来ました。一方で、「あなたはどうするの?」と聞かれると私は「うーーーん、、、」といつも黙ってしまうのでした。
「自分の幸せが何かわからないってこと?」
「卒業後の進むべきは自分で決められるのよ!」
「うーーん、わからない、ってどうして?」
みんなは、わからないことがわからない、と私を見て半分呆れたように笑っていたのですが、私はみんなの話を聞けば聞くほど焦って変な汗が出てくるような思いでいっぱいでした。これじゃ、留学前と何も変わってない。留学すれば、何か目標が見つかると思っていた私は、結局日本にいるときと全く変わっていないことに直面したのです。
また、その後に日本の友達に連絡をして同じ質問をすると「私もわからない」という答えが多く、それを聞いて安心したというよりは、世界で同じ年齢の学生はこうも自分の将来のことが明確なのに、私たちがわからないと言ってそのままにしていて大丈夫なのか!?と、逆に、危機感すら感じたのを今でも強く覚えています。
なんとかしないといけない。
当時アルゼンチンで日本人と全く出会わなかったことや、大学にもアジアからの留学生が私だけだったということもあるかと思いますが、私の生き方や在り方を通して日本が伝わってしまう、と思うと、日本人代表として、なんとかしなければならない、と思うようになりました。そして、親がなんとかしてくれる、学校がなんとかしてくれる、国や政府がなんとかしてくれる、ではなく、自分でなんとかしなければならない、とも思いました。目標を決めるのは自分。そこから私はさらに、留学中の過ごし方を変え、紆余曲折したのちに帰国するに至ったのです。
次回は帰国をしてからの話を書きたいと思います!
最後までお読み頂きありがとうございます。