ハウス
そのマンションは、人通りのまばらな、ニュータウンの大通りから離れた、この世の果てのような、静かな場所にあった。二階建てで象牙色の壁を持ち、白い扉がそれぞれの階に三つほどあった。扉は見えないが、一階の左端には小さな部屋が一つ付いていて、マンションの綺麗な長方形のシルエットを少し乱している。鉄筋コンクリート造で造りはしっかりしており、柱や壁は厚そうだった。周囲には空き地が広がり、ぽつぽつと一戸建てが建っていた。マンションに名前は無かった。八十九という黒い数字のプレートが二階の左上に付いている。三十歳の敦は、その部分に注目した。空を見上げたので、青色が網膜に入り眩しかった。八十九年といえば、敦が生まれた年であり、何か因縁めいたものを感じ、そのマンションを訪ねてみる事にした。
敦は最近まで都内で忙しく働いていたが、仕事を辞めた。生きる気力を喪失したというのが理由だった。その仕事とは簡単に言えば、数字を扱う仕事で、数を足したり引いたりして、数が合わなければまたやり直す。そういった無味乾燥とした数字の足し引きには、生きる気力を失わせる力があると実感した頃には、数も数えられないほど疲弊していた。生きる力を取り戻すには、まずは一人の時間が必要であるという判断を下せるだけの最低限の力は、有難い事に辛うじて残っていた。しばらく仕事をせず静かに暮らすには、生まれ故郷であるこのニュータウンが最適だった。物件は壁が厚くて防音がしっかりしているというのが一番の条件で、利便性は二の次だった。都内から二時間はかかり、電車賃も非常に高いが、その点は問題はなかった。春を待つ蛙のように、しばらくはここに引きこもるつもりだった。今は冬ではなく春であるが、自分を冬の蛙に例えるのがぴったりだった。事実、敦は何処にも行けなくて、眠くてたまらなかった。
敦は不動産屋を通さず、直接大家に交渉しようとした。ずっと実家暮らしだった。賃貸に住んだ事もあったが、親類が借りたものだったので、賃貸の仕組みなど知らなかった。だから、マンションの部屋には大家が住んでいるものと思っていた。マンションの側面に回ると、一階の端にある小さな出っ張りに扉が付いていて、管理人室と書かれている。敦は何度かドアをノックしたが、反応は無かった。ドアに耳を張り付けてみると、耳たぶに冷感を覚えた。普通は建物の息遣いのような機械のモーター音が聴こえるものだが、何も聴こえず、鼓膜が震える程の沈黙があり、死の気配すら感じた。すると、ちょうど敦と同じぐらいの年齢の女性が、マンションの入り口からこちらを見ている事に気付いた。怪しいものとは思われなかったようで、ごく普通に声をかけられた。
「何か、ご用ですか?」
敦はドアから耳を離すと、女性に事情を説明した。女性は管理人ではないが代理のような存在であると言った。部屋は空いているのか、と聞くと、誰も借りていないと言われたので敦は首を傾げた。都心から少し離れていて、利便性はあまり良くないが、どこの部屋も空いているというのは、少しおかしいと思った。空いているならば借りたいと敦は言った。別に良いと、女性は答えた。
「管理人さんに聞かなくていいんですか?」
敦は尋ねたが、女性は首を振った。
「管理人さんは、ずっと、長い眠りについているみたいなものです」
彼女が管理人と呼んでいる人物は彼女の父であるらしく、この女性が実質的な管理人であるらしい。眠っているような状態とはどういう意味なのか敦にはわからなかった。恐らく認知症の類なのかと推測し、妙な表現ではあるが、それほど疑問には思わなかった。ただ、実の父を管理人と呼ぶ態度に敦は違和感を覚えた。
「ここを借りるには、ちょっと特別な条件がありますけど」
午後のニュータウンは、自然と時間が止まってしまったようだった。コンクリート造りの近未来的な道路には、車が時々しか通らず、春の陽ざしはまばらな建物の影を細長く伸ばしていた。敦の側を歩く女性はなかなか口を開かない。まるで影のように敦に付き添っている。変な事になったな、と敦は思った。マンションを借りる条件とやらを歩きながら聞く事になったのだが、彼女は何も話さない。不思議な女性だと思った。掴みどころが無くて捉えどころが無いが、ぼんやりとした印象もない。彼女の切れ長い目を伺っていると、睨み返されそうなので、敦は二人の前に伸びる細長い二人の影だけを目で追っていた。
「あそこ、結構、歴史がありましてね」
あのマンションは敦の予想通り、一九八九年に建てられたものだという。だから、もう築三十年になる。自分が生まれた年だ、と呟くと、彼女がごく控えめな笑顔を浮かべた。そして、自分もそうだ、と彼女が言った。四月生まれだと言うと、同じ月だと彼女は言った。そこまで一致しているので、敦は少し怖くなって日までは聞かなかった。彼女とは、空間は違えど、生まれてからほぼ同じ量の時間を共有してきたのだ。親近感は無かった。ただ不思議だった。自分が四歳の頃は、この女性も四歳で、十歳の頃は十歳なのだ。二人の間にあった隔てられた空間の大きさだけを実感した。生まれてから、距離を縮めたり広げたりしながら、三十年後に同じ空間を共有しているのだ。
彼女は自分の父について語り始めた。一九八九年。その頃、彼女の父は、マンション、アパートをいくつも持っていたという。
「あそこも、入居者が満杯でした」
一九八九年に、管理人があのマンションを建てたのは、このニュータウンが新しい都心になると予測したからだという。もちろん、あのような小さなマンションだけでは不動産王の自尊心は満たされなかった。次々とここに新しくて大きなマンションを建てるつもりだったのだが、彼女の父を不動産王へと押し上げた先見性、予知能力は、その時期から徐々に錆びつき、役に立たなくなっていたという。潮目が完全に変わったのは、九十年代に入ってからだ。新都心を作る計画は破たんし、彼女の父の事業も失敗し、次々と土地や建物を失っていった。
「管理人に会ったら、残っているのはあのマンションぐらい、と管理人は言うかもしれませんが、それは嘘で」
資産はだいぶ減らしてしまったが、県庁所在地の駅前の土地を持っていたので、今でも全く金には困っていないという。
「趣味で経営しているようなものですよ」
敦はマンションが建てられた経緯を理解したが、今は誰も住んでいないという事実が理解できなかった。
「条件というのは、管理人に会ったら、世界がまだ一九八九年であるように振る舞って下さい、という事です」
敦は納得した。誰も住んでいないのは、その条件を飲む人がいなかったからだ。現在が過去であるかのように装うのは、それなりに難しいし、そんな芝居を打たなければならないほどの物件ではない。
「やったことありませんけど、簡単そうではないですね」
「一人じゃ滅多に出歩けないけど、会ったら、お仕事ですか、とか適当に話を合わせてあげて下さい」
あの管理人は、自分の頭の中では、まだ不動産王だった時代に留まっているらしい。気が付くと、彼女の家の近くまで来ており、彼女が自分の家を指さした。なかなか大きな家だった。マンションと合わせれば、まあまあの敷地をこの土地に持っている事になる。だが、管理人の理想とは大きく乖離しているのだろう。管理人の望みはもっと大きかったはずだ。この街ひとつ、丸ごと買い取るぐらいの事は考えていただろう。それこそ、彼の考える夢の国を建てたかったのかもしれない。
「怖くはありませんよ」
女性が付け加えた。
「優しくて、紳士そのものです。私から見てですけど」
女性は恵梨香と名乗った。敦も名を名乗った。名前の前にお互いの年齢を知っていたのは、変な気分だった。名乗り合うと、むしろ二人の間に距離が出来た気がした。恵梨香は例の条件を飲めるのならば、部屋を見せると言った。敦は承諾した。管理人は少し変だったが、住むのが自分一人だけというところが気に入った。どんなに壁が厚くても騒音問題は発生する。一人ならば問題自体が発生しないだろう。音だけではない。他人さえいなければ、大抵の問題は発生しない。敦はそう考えていた。
マンションへ歩いて戻ると、望みの部屋を聞かれた。敦は二階の右上の部屋を指さした。二○三号室と書いてある。隣は二○二、その隣は二○一だ。一階も左から一○一、一○二、一○三となっている。ただの数字だが、不思議な説得力があった。ある部屋とある部屋は別物である。数字はそれをしっかりと語っている。万物の元は数であると、昔の哲学者が語ったそうだが、敦はそれを実感した。恵梨香と敦は外階段を昇り、二○三の扉の前まで来た。ごく普通の木の扉で白いペンキが塗られている。中央にドアスコープがあった。ドアの下にはポストがついていて、ドアノブは銀色だった。カギを取り出し、差し込んだ。ドアノブに手をかけてまま、恵梨香は敦を見つめた。
「驚くのは苦手ですか?」
と恵梨香は言った。その言葉自体に敦は驚いた。
「まあ、得意というほどでもありませんが……」
外観に驚くべき点は見当たらない。それはもちろん部屋の内装の事だろうが、こんな何の変哲もないマンションの内装で、驚くような事があるのだろうかと思ったが、扉が開かれると恵梨香の言った事が理解できた。
マンションの内部で、全ての部屋はつながっていた。二○三号室の左側の壁は綺麗に取り払われ、一階の一○二号室へと木製の階段がなだらかに伸びている。二○二号室は床も壁も完全になくなっており、壁に白い扉が取り残されているだけで、もしその扉を外から開けたら一階へと落ちてしまうだろう。二つ隣りの二○一号室も壁が取り払われ、中央の一○二号室へと木製の階段が続いている。真下の一○三号室も壁が取り払われ柱がいくつか残っている程度で、対角線にある一○一号室も壁が無い。それはまるで、エッシャーの騙し絵を立体化したようだった。一○一号室の奥には、白いカーテンが見えた。おそらくその向こう側が管理人室なのだろう。つまり薄い一枚の布で区切られているとはいえ、七つの部屋全てが一つに溶解しているのだ。
「驚くのが苦手なら、気絶していましたよ」
敦は部屋の奥へと進み、窓の外を眺めた。信号機が見え、横断歩道が見え、コンビニエンスストアが見える。人は一人も見えない。この異様な空間の中から眺めると、何の変哲もない景色が、ひどく不思議で不可解なものに見えた。
「これで一つの部屋なんで、部屋を借りたら、どこに移動しても構わないですよ」
恵梨香が言った。彼女の表情は変わらない。こんな狂った空間にいれば、自然と頬や目の周辺が弛緩したりするものだが、完全に慣れてしまったのだろう。彼女の平常心が、さらに敦の平衡感覚を失わせた。
「でも、家賃の方は一部屋分の八万円で結構です」
夏や冬ともなれば冷房代や暖房代がかかるだろうが、六部屋分の家賃としては破格だ。
「ただし、カーテンの向こう側には行かないで下さい」
カーテンの向こう側には、元不動産王の管理人がいる。もちろん、自分から向こう側に行こうなどという気は敦にはなかった。
「何がどうしてこうなってしまったんです?」
最初からこういった設計ではなく、明らかに後から壁が取り払われ、一つにされた事がわかる。
「残念だけど、教えることは出来ません。プライベートに関わる事なので」
少しため息混じりに、彼女は言った。この空間を作り上げたのは恵梨香ではないだろう。管理人がこのマンションの常識外れの間取りを作り出したのは明白だ。
「少し、中を見たい、というか歩きたいんですが」
正直、借りる気はしなかったが、この不思議な空間を体験したいという気持ちはあった。それに、どうしてもこの空間を初めて見た気がしなかったのだ。確かどこかで、はっきりと見ていたはずだった。
「いいですけど、段差には気を付けてください」
恵梨香は一階の管理人室のカーテンを指さした。
「管理人を散歩に連れて行かなくちゃならないから」
「長いですか?」
「一時間です。人によっては長いかもしれません」
そう言って恵梨香は二〇三号室のドアから出ていった。しばらくすると管理人室のドアが開く音が聴こえた。そのまま、階段を下りて一階に行けば良いのに、と敦は単純に思った。
実はこういったタイプのマンションに、敦は一度住んだことがあった。部屋は六つあり、一階、二階にそれぞれ三部屋だから、このマンションとほぼ同じタイプである。もちろん内部に繋がりはなかった。隣の音が一切聞こえない分厚い鉄筋コンクリートの壁に仕切られていた。実家を出て、初めて住んだ家だった。他人同士が、同じ屋根の下に暮らしているのが不思議だった。ちょうど仕事を始めた時期でなかなか眠れなかったが、眠ると全てと繋がっていた夢を見た。六つの部屋が一つになり何処へでも行ける夢だった。部屋には全て人が住んでいたが、その人たちとも一体になり気持ちが通じ合った気がした。今まさに、あの時の夢が現実の空間となっている。
敦は一階に降りて、白いカーテンの向こう側に入った。入るつもりはなかったが、マンション内を歩く内に考えが変わった。この空間を作り出した管理人が、どういう思考の持ち主なのか知りたくなったのだ。カーテンの向こう側には、異界があるわけではなかった。木の机があり簡素なベッドがある。机の引き出しを開くと、青い大学ノートが入っていた。ノートには細かい字がボールペンでびっちりと書いてある。文字の合間を縫うように古ぼけたカラーの写真が貼ってあった。そこは密林のように見えた。随所に南米という文字が出てくるので、南米の密林なのだろう。書いてある文章を読んでみると、密林に住んでいる部族の話がほとんどだった。その部族は夢見の技法を持っていて、自在に夢を見れる事で有名だと記してある。管理人は徐々に部族との距離を縮めていった模様で、それに伴う苦労もきっちりとノートには書かれていた。紙には濡れて乾いた跡があるので、ノートも現地で書き記したのだろう。日本語を彼らが読めるわけがないという安心感がそうさせたのか、文章から部族に対する嘲笑や感嘆も読み取れた。この部族、実は近代化、文明化がだいぶ進んでいるが、観光客が来ると巧妙にそれを隠し、わざとらしく彼らの望む非文明人を装うという。文明人が考える非文明人というものをきっちりと把握していて、それらしく装う。これ見よがしに干し首など首からぶら下げているが、百年遡っても、この部族にはそのような伝統は無かったという。その厚顔さに呆れつつ、彼らはビジネスマンとしては優秀であると、管理人は成功したビジネスマンらしい意見を記述している。
読み進めていくと、管理人の苦労が身を結び、夢を見る技術を聞き出せたらしい事が伺えた。その技術はそれほど難しいものではなく、夢で見た光景を現実に実現し、その中で生活すると、夢を自在に見やすくなると書いてある。建物に関する夢が最も効果的だという。夢の中で良く出てくる歪んだ建物、連結した超現実的な建物を実現し、その中で生活すると、夢を見やすくなるという。その証拠に写真に写る彼らの住居は、融解したように結合していた。
部屋がつながってしまう夢。恐らく管理人も見ていたのだろうと、敦は思った。こういった夢に関して語った事は無いので、どれ程一般的なものなのか、敦にはわからなかった。
印象深い密林の写真を何枚か見た後、一つの写真に目が留まった。色鮮やかな鳥がいる。オウム、オオクチバシの類なのだと思うが、明らかに大きすぎる。先住民が五人ほど並び、一番端に管理人と思われる人物が立っている。管理人がクチバシを脇に抱え、一番右端の人物が足を持っている。その間にいる人々は、その鳥の胴体を下から手を出して支えていて、そのごつごつとした手が色鮮やかな羽毛の中に埋もれている。みな笑顔だったが、肩や腕の筋肉から力の入り具合が推し量れた。相当に重いだろうし、全長は四メートルはあるだろう。直立すればこのマンションの一階分の高さに相当する。そんなオウムがこの世にいるなど聞いた事がない。住居が少々変わっているぐらいで、他の写真が写す風景はドキュメンタリーなどで見る中南米のものと変わらなかったので、鳥の写真の異彩ぶりは際立っていた。
ノートを見ているうちに、敦は眩暈と眠気を覚えた。ノートを仕舞い、管理人室から出て、階段を昇り、二○三号室に行って、カーペットの上に横になった。随分とやわらかいカーペットで、心地よさが眠気に拍車をかけた。
目を閉じると、密林にいる夢を見た。蒸し暑くて、皮膚から汗が流れ落ちている。水に浸したスポンジのように身体が重く、果たして何処へ行けば良いのかわからなかった。空からオウムの鳴き声が聴こえた。夢が夢である事が自覚できた。森は深いが何処まで行けると思った。このまま行けば、あのオウムの姿を見るのだと思うと、少しぞっとした。歩いているうちに、身体の自由が利かなくなったと思ったら、意識がマンションに戻っていた。
目の前に恵梨香が立っていた。
「眠り心地も試していました」
背中が痛かったので、敦はカーペットからぎこちなく起き上がった。
「ノート見たんですか?」
眠くなったので、仕舞い方が雑だったようだ。
「全部は無理でしたが」
彼女がどんな反応をするのかわからず、敦は久しぶりに恐ろしくなったが、恵梨香は無言だった。
このまま追い出されることを覚悟していたが、恵梨香は一階の中央の部屋、一○二号室を指さした。
「ちょっと話しましょう」
一○二号室は天井も壁もなく、整然とした誰もいないホテルの待合室みたいだった。オーク材で作られた丸いテーブルがあり、一○二号室と、二○二号室の窓から注がれる四月の陽の光が、テーブルとカーペットに細長い光の筋を作り出している。見上げれば、二階部分に二○二号室の扉が貼りついている。つくづく不思議な空間だった。目を開いたまま夢を見ている気分だった。彼女が散歩の途中で買ってきたチョコミントシフォンケーキが出された。柔らかいスポンジケーキが薄緑色に染まり、合間に茶色いチョコレートの筋が入っている。甘くて清涼感があるので、目覚ましにはぴったりだった。
「うちの父は三十年前、実業家として成功していました」
写真で見る限り、確かにその表情から実業家の片鱗を感じる事は出来た。それが長くは続かなかったのは、さきほど外で恵梨香に聞いた通りだった。運気の下り坂を転がり落ちていく途中、管理人は自分のホテルで歌わせていた南米から来たダンサーに入れあげ、家族も顧みなくなったという。そしてその当時、管理人の妻が身ごもっていたのが、恵梨香だという。そういえば、写真には不自然なほど管理人に寄り添う女性がいた事を敦は思い出した。それがそのダンサーなのだろう。
「それで、その後はノートに書いてある通りですよ。あなたがそこまで読んだか知りませんが」
ダンサーの祖国に夢を自在に見れる部族がいるという情報を聞いたらしく、管理人は妻子を捨てて密林へと旅立っていったという。
「ご覧のとおり、父の夢は叶いました」
ノートには書いていなかったが、密林では大変な事が起こっていたらしい。その先住民の村はコカイン栽培を行っており、反政府ゲリラがそれを受け取り、アメリカから来る密輸業者から武器とコカインを交換していたのだが、村はこっそりアメリカとも直接取引していた。それがゲリラに知れたので襲撃を受けたという。管理人は命からがら逃げ出せたが、ダンサーは死亡したという。
日本に帰ってきてから管理人は、先住民の教えの通りマンションを改造して、自在に夢を見れるようになったという。
おかしくなったのはそこからだった。管理人は夢の中に入りびたり、現実にはほとんど興味を示さなくなっていったという。
恵梨香も母に育てられ、父と交流した記憶はほとんどないという。
「借りますか?」
敦は頷いた。広さが気に入った、という事にしておいた。恵梨香は、敦がこのようなマンションの夢を見ていた事を知らない。本当の目的は自在に夢を見るためだった。
一週間後、敦は引っ越しを行った。どこに行ってもよいし、どこで眠ってもよい。自由を感じたが、これはあっという間に慣れてしまう類の自由だろうと思った。とりあえず、二○三号室で眠ることにした。マンション内の明かりを全て消すと、カーテンが仄かに輝いているのが見えた。管理人が起きているのだろうか。敦はまどろみながらカーテンを眺めていた。気が付くと、その光は密林の帯状の木漏れ陽になっていた。敦は密林の中を歩いていた。足元で枯れ木が音を立てて砕けていく。音は一つではない。複数だ。敦は銃を担いでいた。古いマスケット銃のようなもの。鉄の錆の匂いすら漂うほどの古めかしさだ。先住民の男たちは敦の傍を影のように歩いている。自分は狩りをしているのだな、と敦は思った。振り返ると先住民の男たちは敦へ信頼に満ちた笑顔を返した。もう、だいぶ打ち解けている。彼らは敦の前で未開人を装う必要もなくなっていて、ティーシャツにジーンズだった。その銃は百年も前にスペイン人が持ってきたもので、使えるかどうかわからない、と男たちは笑った。敦は、ついさっき、彼らに村で料理を振る舞われた事にした。料理は管理人の写真に載っていたものだ。沼で取れたナマズ料理。ナマズを鍋でドロドロになるまで煮込んだ。味は人工的なものではない。洗練されておらず強烈な味で、喉に小骨が引っ掛かる。生命の塊をそのまま口から取り入れている気分になった。
振り返ると、木の枝に巨大なオウムが止まっているのが見えた。濃緑のジャングルの中では、赤や黄色の極色彩はひときわ目立って見え、重さで太い枝は大きく湾曲している。写真で見たものと同じだった。敦が狙いをつけて撃ち落とそうとすると、伏せろ、と男たちは言った。
撃つなら姿をしっかり隠してからやれ。油断していると、あいつのクチバシで頭を齧り取られる、と男の一人が敦に笑いながら警告した。
狩りなどした事はなかったが、充実感が全身に満ちていた。ひんやりとした銃身が心地よかった。耳を澄まし、彼方からの鳥や猿の鳴き声を聴いた。身体の奥に生きているという実感があった。敦はあのオウムは村を襲って、人々の頭を齧り取っているんだ、と考えた。すると男たちから浮かれた表情が消え、真剣な表情になり頷いた。あんたは狩るのが上手い、と男の一人が囁いた。あの男はどうした? と敦は尋ねた。あの男とは管理人の事だった。男の一人が指差した。すると、向こうの茂みに、管理人が見えた。現実の世界で管理人と会った事はないが、少なくともここでは、誰の世話も必要としない、世界の何処でもやっていける、しっかりとした人間に見えた。ここで管理人を撃ったらどうなるだろうか、と敦は考えた。男たちにとっては、思わぬ展開だろう。彼らは驚いて、どういった行動をとるだろうか。何が起こるかわからないが、何が起こったところで、これは現実ではないのだ。何も問題はない。明日には同じ場面からやり直せるかもしれない。敦は管理人に対して、狙いをつけた。管理人は何も知らずに、オウムを凝視している。管理人が一体、何を求めているのか、何を求めてここに来たのか、敦にはわからなかった。敦はゆっくりと銃を下した。オウムが留まっていた木の枝を見ると、もう飛び立った後だった。目が覚めるような黄色や赤の羽が、左右に揺れながら、ゆっくりと地上に落ちていく。
「顔色が良くないですね」
管理人を散歩に連れ出すために来た恵梨香と鉢合わせた時、そう言われた。恵梨香に言われるまでもなく、敦もそれは自覚していた。
「良く眠れていますか?」
原因が寝不足ではない事ははっきりとしている。むしろ夢の世界に入れ込みすぎて、現実の生活の何もかもがおざなりになっているためだ。敦はそれでも構わないと思っていた。自由自在に動き回れる夢の方が現実よりも楽しかった。敦はチョコミントシフォンケーキを食べ、舌先で清涼感と甘さを味わった。人工的な甘さだったが、味覚が刺激される時だけ、夢ではなく現実にいるのだという実感を覚える。今、神経や血が通っているのは、この舌だけだという気分になった。
「もしかして」
「何です?」
「もしかして、『夢』を見ているんですか?」
恵梨香にそう問われて、否定はしなかった。否定したところで無駄だろう。きっと、顔色は管理人と同じになっているのだろう。
「このままだと……」
「いや、いいんです」
恵梨香の表情から察するに、衰弱ぶりは目に余るものらしい。恵梨香は言葉を途切れさせたが、死んでしまう、という言葉を飲み込んだかもしれない。死が近いのか、と敦は思った。それでも構わないと、敦は考えた。数字をひたすらいじっているだけの人生だった。このまま消えてしまっても、誰も気づかないだろう。一から一を引いてゼロになるようなものだ。
「夢見てるみたいな人生でした」
思わず出た言葉だった。なぜ自分がこんな言葉を言ったのかわからないが、心から出た言葉だった事は確かだった。
「それじゃ、ダメですよ」
恵梨香が言った。彼女のようなもの静かな人間から、こんな言葉が出るとは思わなかった。心の奥深くに隠された、夢に対する怒りが伝わってきた。それは夢に父を奪われた人間の怒りなのだろう。
「ダメですかね」
敦は今なら理解できた。彼女がどこか冷徹で現実的な態度をあからさまにとりたがるのは、想像の世界への軽蔑だった。彼女の父である管理人は、夢追い人だった。夢を追いかけ、夢に破れると、夢の中に逃げ込んだ。まるで、夢に飼われている家畜のようだ。彼女が夢というもの、甘美な想像の世界に怒りを抱いてもおかしくはない。
「散歩の時、話しかけても父は本当の気持ちを何も答えてくれません。表面的な受け答えだけで」
管理人と会話するのは、深い井戸に石を投げ込み、その反響音を注意深く聴くようだ、と恵梨香は語った。
「父から、聞いてみたいんですよ、なぜ私たちを見捨てたのか」
恵梨香とその母は、二重の意味で、見捨てられている。南米出身というダンサーに走り、その後、夢の中へと逃避した。
「そんなに夢の方がいいんですか?」
恵梨香は敦の手を掴み、そのまま手の甲に爪を立てる。血が滲んだ。なぜそんな事をするのかわからない。敦の考える恵梨香とは明らかに違う行動だし、敦は恵梨香を制御できなかった。痛みを感じると同時に、恵梨香が自分とは別の人間であると、はっきりと認識できた。
自らの行動に驚き、恵梨香は手をひっこめる。詫びる事も忘れているほど、動転しているようだ。
彼女の行動は理解できなかったが、敦は不思議と、彼女とは分断はされていないと思った。それは敦の痛みの表情を見て、恵梨香が引っ掻くのを止めたからだ。もしかしたら、この同い年の女性の喜びが、自分自身の喜びとなる、敦はそう考えた。急に目の前が大きく開けた気がした。
そして、敦の頭に一つの案が閃いた。
「管理人ではなく、父さんとも、もう一度会いたいですか?」
「もちろんです」
恵梨香は答えた。
管理人をもう一度現実に戻す作業は、明日から始める事にした。
その夜、いつも通り敦は眠りについた。
また、密林の夢を見た。
自在に好きな夢を見れるはずなのに、どういうわけか、いつも密林の夢を見てしまう。きっと自分にはここが心地よいのだろう。今日は密林の中を逃げていた。ゲリラが村を襲撃していた。管理人と一緒に来ていたダンサーがゲリラに撃たれ、管理人と敦は密林の中を逃げていた。ゲリラは白昼堂々、昼食時に攻撃してきた。ナマズ鍋の具材と、撃たれた砕けた肉片と区別がつかなかった。村は炎を上げて燃えていた。ぶつかり合って溶け合ったような奇妙な形をした住居は、きしみ、音を立て崩れ、火の粉を散らし、混沌とした残骸になってゆく。敦は管理人やダンサーとは親密になっていた。敦がそう願った。だから、それは夢の中では現実のものとなった。ダンサーは撃たれて死んだ。確か二十歳と言っていたから、わずか二十年の人生だった。とても短い生命だった。彼女に関しては、それ以上の事は何も考えられなかった。ここは夢の中であり、敦の意思で自在に全てを変えられる。つまり、彼女を復活させる事も出来なくはない。彼女を起き上がらせて、はじけて粉々になった褐色の肉体を再生させる事が敦には出来る。あるいは、ゲリラの襲撃自体を無かった事にも出来た。だが敦は何もせず、そのままにしておいた。魂のみが存在する状態、つまり幽霊としてダンサーを復活させる事も出来たが、そのままにしておいた。いま敦が眠る場所とは反対側、地球の裏側で、現実の彼女は既に死んでいて、もう復活はしない。敦は現実のダンサーを見た事も無ければ、話した事もない。敦の脳の神経が作り上げた像である。実像には限りなく近いはずだ。貧しい村で育ち、地球の裏側まで行き、また戻ってきて殺された。この地球では、いったい何人の人間が彼女の年齢で死んでしまうのだろうか。いったい何人の人間が、敦の年齢まで生きられるのだろうか。どこまで逃げればよいのかわからなかったが、延々とゲリラは追ってくる。まるで自分自身の憂鬱な影だ。敦が枝を踏みしめて走りぬけば、数秒後には背後から同じ音がする。膝まで泥水に浸かって沼を渡れば、数秒後に背後から泥水をかき分け自分に迫る音が聴こえる。無意識が作り出した悪い夢に引きずりこまれたわけではない。これは自分の意思で作り出した夢だ。つまり、敦自身が望んで作り上げたのだ。追われているのに、充実感があった。こんな事は現実では起こらない。頼られる事も失う事も、命からがら逃げ惑う事も。ここには敦の魂を高揚させる全てが揃っていた。だから、少し後悔した。どうして、自分は現実に戻らなければならないのだろうか。どうして、管理人を現実に戻そうとしているのか。
蔦が絡みつく木々の間に恵梨香の姿が見えた。同じ年に生まれ、同じように何も起こらなかった人生を送った。だが、彼女と敦が決定的に違うのは、彼女が事実上、父を喪失している事だった。羨ましかった。敦は何も得ることはなく、何も失うことはなかった。たとえ恵梨香がこの密林で涙を流していたとしても、敦はそこに共感できないのだ。敦は恵梨香に近づいてみた。恵梨香は立っているだけだった。手を伸ばして触れようとすると、手を掴まれ引っ掻かれた。
目を覚ますと、珍しく真夜中の三時三十分だった。普段なら朝まで深い眠りに落ちるのだが、窓の外を見ると、満月が見え、県道の脇にあるコンビニエンスストアのぽつりとした灯りが見えた。窓を開けると、生ぬるい空気を顔の皮膚で感じた。静まり返り音ひとつしなかった。夢の中の方がまだ現実感があった。敦はどこか遠い惑星を旅して、そこで取り残されたような気分になった。
マンションには次々と植物が運ばれてくる。わずかに本物の植物もあるが、ほとんどはプラスチック製の偽物だ。天井まで届くような巨大なものから、足首ぐらいの高さしかないものまで様々だが、全ては敦の脳内の密林を形作るための舞台装置に過ぎない。敦だけではもちろんこんなものは用意できない。恵梨香に協力してもらい、偽物の熱帯雨林植物を作るための道具を用意してもらった。資金面に関しては問題はない。問題はどこまで敦の頭の中にあるものを、このマンションに再現できるかだった。イメージの元となったものは、管理人のノートだ。だから管理人も同じ光景を見ているのだろうと敦は考えた。
業者に運び込んでもらうと、敦と恵梨香は二人で協力して密林を作り上げていった。がらんとした空間が、人工的な密林に近づくほど平坦なカーペットや床が見えにくくなり、躓く危険が増えた。人口の木に躓いて転んだ時ですら、現実の密林に近いと敦は喜び、恵梨香を呆れさせた。
次の日には、マンションはすっかりと密林になっていた。場違いに見える一○二号室のテーブルだけが、既に薄れつつある原型、以前のマンションの記憶を呼び覚ましてくれた。ほぼイメージ通りのものが出来上がったと敦は満足した。外では弱い雨が降っていた。人工の木々の間から見えるガラス戸に、透明な水滴がつたっている。遠くから雷の音が聞こえ、ガラス戸が少し震えたように見えた。天候がこの密林が持つ人工的な部分を打ち消してくれたので、少し出来過ぎで夢ではないかと敦は思った。
「感想は?」
恵梨香が言った。
「地球の裏側って感じですね」
敦は足元に気を付けながら、テーブルへと向かった。象牙色のカップにコーヒーが入っていて、木々の葉を表面に写している。平たい皿の上には、チョコミントシフォンケーキが置いてある。コーヒーとケーキの匂いは、密林には場違いすぎて、むしろ夢の中にいるような感覚にさせてくれた。恵梨香も椅子に座った。そして周囲を見回した。敦の頭の中には先ほどから鳥の鳴き声が再生される。植物は用意したが、さすがに鳥までは用意していない。神経の中に記憶された音声が、視覚情報に刺激され自動再生されているのだろう。猿や蛇やヤドクガエルまで、今にも蔓の陰から顔を出しそうだった。
「ディズニーランドみたい」
「夢の国ですからね」
非日常空間に興奮しているのか、恵梨香の顔が少し上気して見えた。敦はむしろ逆に落ち着いていた。これは夢の中で散々見てきた光景だ。いまさら騒ぐ事もない。むしろ、自分の意識の中に落ち込んで、そこで座り込んでいるような安心感があった。
「実は、部屋が繋がっている夢を、私も見た事がある」
恵梨香がそう言った時、敦は特に驚かなかった。自分も見た事があるので、そういう夢は一般的なものだと思った。
「みんな見るんですね。その夢」
「いえ、かなり珍しいと思いますよ。他の人に聞いても、そういう夢は、私以外、誰も見た事がありませんでした」
「じゃあ、ここにいる三人が全員見ているのって……」
とにかく恵梨香も、ここで眠れば、自在に夢を見れる可能性があったのだ。
「夢に興味ないんですか?」
夢の世界で漂うのは、当たり前だが、とても気分が良い。恵梨香は考え込んでいた。象牙色のカップを両手で握りながら、自分の深い部分に問いただしているようだ。
「大事な人を奪われたので」
恵梨香はそれだけ答え、人差し指でテーブルの表面をなぞっている。
「そろそろ、呼んで来たらどうです?」
敦は白いカーテンを指し示した。恵梨香は立ち上がり、足元に気を配りながらゆっくりと進んでいく。夢の中で歩いている時もこんな感じだったな、と敦は思った。敦は彼女の人生に何があったのか、考えてみた。彼女は、自分と同じ時間を歩んできただけだった。三十年の時が二人を隔てていたのだ。その歩みを考えるだけで、二人がここにいる不思議を、何か親密なものを敦は感じた。
しばらく待っていると、管理人が姿を現した。敦は彼の姿を見るのは初めてだった。ノートに載っていた顔と同じであるが、年齢を重ねただけではなく、魂がはっきりと抜けてしまっているようだった。白髪は肩口まで延び、髭は顎まで垂れ下がっている。着ている白いワイシャツのためか、不思議な清潔感があった。管理人は、一歩一歩、足場の悪い密林を踏みしめながら進んでいる。管理人の目を見ると、どんよりと濁り、どこも見ていない。どうして自分がこんなところにいるのか、まるで理解できていない様子だったが、密林にいる事を認識すると、その目に生命が宿った。管理人が顔を上げた。彼もきっと敦と同様に脳内の鳥の声を聴いているのだろう。
「何の用だ?」
管理人は敦に語りかけた。これが初対面とは思えない話し方だ。恵梨香もまるで初対面のような目で管理人を見ている。意識が完全に、今ここに戻っている状態で、管理人の声を聞いたのは初めてなのだろう。
「私は地球の裏側で楽しくやっている」
不思議と、敦には管理人の考えが理解できた。現実に失望し、そして確実に後悔している。夢を見失い、どうすれば良いのかわからず、親しい人を裏切り、親しい人を殺されてしまった。
恵梨香が管理人の手を強く握りしめた。
管理人は困惑している。ここが夢か現実かの区別がついていないようだ。敦は考えた。管理人の心の中には、あのダンサーがまだいる。当然、自分の夢の中にも登場させているのだろう。敦と違って、彼女の死を受け入れず、肉体を再生させ、密林の奥で共に暮らしているのだろう。
「もう、あの女性は死んだんです」
敦がそう言うと、管理人は首を振った。
管理人は恵梨香の手を振り払い、敦と恵梨香が作り上げた人工の密林に逃げ込み、彷徨いだした。密林を本格的に作りすぎてしまったので、管理人の姿を見失ってしまった。
あれ以来、マンションは密林のままだ。
敦と恵梨香は、管理人が現実に戻って来られるよう、少しずつリハビリを進めているつもりだった。管理人はいつも木陰に隠れたりして、姿を隠しているのだが、二人とも無理に見つけようとはしなかった。昼になると、敦と恵梨香は一階のテーブルに座り、管理人が密林の中から姿を現すのを待った。こちら側が静かにしていると、管理人はいつも木陰から静かに現れる。
「夜になると、ライトを持ってうろついているんです」
敦が呟いた。管理人は夜中でも密林の中で、何かの探索を続けている。いったい管理人はいつ眠っているのだろうかと敦は思った。
人工の木の葉が揺れ、やがて今日も管理人が姿を現し、ゆっくりと身体を引きずり、席についた。出て来たからと言って、何も話すことはなかった。ただ、通常の時間が引き伸ばされたような永い沈黙だけがあった。
管理人、そして恵梨香と過ごせば過ごすほど、彼らが自分と似ていると敦は思った。彼らも何かを失い、今どこにいるのかわからなくなっている。敦と管理人は、自分が地球の裏側にいるのか、夢の中にいるのか現実の中にいるのか、わからなくなっている。恵梨香は父を失い、今自分が生きているという実感が湧いていないように見える。だから、こうして同じテーブルについていると安心できた。三人とも何も語らない。だが、三人の間、人と人の間に何かが現れる。目に見えないが確かにそれは感じられた。敦でも恵梨香でも管理人でもない、新しい何かが確かに生まれる。それは一人の時、夢の中では決して生まれないものだった。
「父さん、これ食べる?」
管理人は恵梨香が差し出すチョコミントシフォンケーキが気に入っているようだ。不愛想に管理人はケーキの皿を受け取ったが、微かに口が動いたので、敦には管理人が礼を言ったように見えた。ほんの少し、風で葉っぱが揺れるほどの動作かもしれないが、それは小さな波動となり、確実に周囲に影響を及ぼした。
「そういえば、このマンションの名前って、八十九でいいんですか?」
敦が尋ねた。
「あれはただの番号で、父は名前を付けたくなかったそうです。父はここをただの家、『ハウス』と呼んでいます」
少しづつだが、管理人はこちらの世界に近づいている。
恵梨香も敦も、今ここで生きていると、少しづつ実感しつつあった。