夏の淫らな蛙
あの夏、私は一人の男を穴に閉じ込めた。
私も他の多くの人々と同様に、私の心を深く傷つけるものは、残念ながら死んでも仕方がないと思っている人間だった。
あの日、私は自分の家へと続く畦道を歩いていた。私の両脇から水田に潜む夏蛙の鳴き声が聴こえてくる。一体どうして夏蛙の声はこんなにも私を落ち着かせてくれるのだろう。蛙の鳴き声など、煩いだけだろう、とある友人は言ったが、私はそうは思わない。人の意見など、だいぶ気にしなくなってきた自分に私は喜びすら感じていた。
空には入道雲、稲穂には強い直射日光が降り注ぎ、私は明確ではっきりとした幸福を感じた。今日は水田の除草と水の調整を行った。稲作農家は、夏にそれほど行う事は無い。東京で仕事していた時とは違い、ゆったりとした自分のペースで仕事が出来る。これは私の天職であると思い私は天に感謝した。
やがて大きな民家が見えてきた。祖父の代から続く日本家屋だった。
家に入ると母屋まで続く飛び石が見えた。そこから少し離れたところに、ぽっかりと、大きな穴が開いている。穴の底にはあの男がいる。穴に落としてからまだ彼の笑い声しか聞いていない。私は彼の泣き声が聞きたかった。蛙の鳴き声に似た彼の泣き声が聞きたかったのだ。私は穴の淵に行き中を覗き込んだ。顔が赤く焼けただれた男の顔が見えた。肌が痛むほどの日光だからそうなるのは当然だ。金髪はすっかり汚れ、痩せた身体はさらに痩せている。汗と垢の匂いがここまで漂ってきた。こんな風貌にも拘わらず、彼は眩しいほどの笑顔を浮かべ、私に微笑みかけた。
「なあ、兄貴」
私の事を彼は兄と呼んだが、それは正確ではない。実際には彼の兄貴分といったところだ。私が望んでいるわけではない。彼が勝手にそう呼んでいる。
「兄貴、そろそろ出してくれよ」
私は馬鹿にされた気がした。明らかに見せかけだけの懇願だった。
「駄目だ」
私は彼の申し出をきっぱりと断った。
「駄目?」
「駄目だ」
「駄目なのかよー」
彼の声に悲壮感はない。穴中に反響する声で笑いながら、彼は私の出した結論繰り返した。立場をわきまえない彼の態度に呆れていると、不意に私の視界に細い腕が入ってきた。彼が穴の底から口笛を吹く。細くて扇情的な音は、恐らく彼の意図したとおり私の鼓膜に突き刺さる。腕は靖子のものだった。顔を上げると、靖子が私に微笑みかけた。その姿は何度見ても飽きるものではない。黒いワンピースに長い髪が肩にかかっている。彼女は穴の側にしゃがみこみ、蛙でも観察するように、彼の様子を伺った。彼は相好を崩した。異常な状態の対面なのに、まるで道端で出会ったように、はにかみ、笑顔を見せた。子供っぽい人を食ったような態度は影をひそめ、小賢しくも大人ぶり、繕おうと格好をつける。
「家に入ってろよ」
私は小さく咳払いをして彼女に命じたが、彼女は私に笑顔を返すだけで、穴の中にいる人間の観察をやめようとしない。
「なあ、兄貴」
大人からまた子供に戻ったような声で、彼が私に声をかける。
「この人に聞いたらどうだい」
「何をだ?」
彼はにやけた。
「俺をここから出すかどうか」
自力で出れないはずはない。木の格子をかっちりとはめてあるが、その気になれば外せるだろう。私はむしろそれを待っていた。罰を受けているにも関わらず逃げ出した男。そんな男なら私も容赦なく暴力をふるえる。彼を木の棒で滅多打ちに出来ると考えていたのだが、どういうわけか、彼は穴から出ようとはしない。むしろ、ここが心地よいと言わんばかりに居座っている。
「彼女に決めさせるのかい?」
「姉さんだって、気分悪いだろ。俺がこんなところで井の中の蛙だなんてな」
恭子を姉さんと呼んだが、血縁はない。私を兄さんと呼ぶのと同じ理由だ。深い親しみを込めたつもりなのだろう。
「駄目だ。私が決める」
穴に閉じ込められた彼が上機嫌で、一方の私が不機嫌なのは何かおかしいと思った。私は彼には泣き声を上げてもらうつもりだった。彼を穴に閉じ込め、ここから出してくれと、夜通し泣いてほしかった。そうでなければ、ここから脱出してほしかった。私は彼の姿を見つけ、ぶちのめして、鼻っ柱を折ってやりたかった。泣くか私に殴られるか。そうすれば勘弁してやるつもりだった。しかし、彼は泣きもしなければ、逃げもせず。むしろ、この状況を楽しんでいるようにすら見えた。つまり、私がもっとも面白くないと思う展開になっている。
「姉さんに聞いてみなって」
「駄目だと言ってるだろ」
「わかってるよ。だけどさ、姉さんの考えを知りたいんだ」
私は彼に悟られないよう、靖子の顔色を伺った。彼女は彼に慈悲をかけると私は思っていたが、靖子は無反応だった。彼に対する仕打ちを積極的に支持はしないが、反対もしないという立場なのだろう。
「駄目みたいだな」
私が彼に宣告した。その時、彼女が微笑んだ気がした。そして唇の動きが、彼に対する何らかの意思表示のような気がした。ただちに私の心に猛烈な嫉妬心が芽生えた。私はいきなり彼女を押し倒した。ちょうど彼女の後頭部が穴を塞ぐ格子にあたり、彼女の黒髪が、穴の中へと垂れ下がる。
「お、兄貴。白昼堂々か?」
彼が嬌声を上げる。私は不思議に思った。彼は靖子を愛していないのだろうか。頭上で靖子が抱かれても、何の反応も示さないのか。私はすぐに靖子から離れた。そこには、何の欲望もなかった。ただ、彼の反応が知りたかっただけなのだと、自分に言い聞かせた。靖子に対する愛情は、過剰なほど持っている。だが、こんなところで昼間に出来るわけがないと自分に言い聞かせた。
「どうしたんだよお、兄貴」
格子から肌色の蛇が数本顔を出した。彼の指であることはわかっていたのだが、妙に艶めかしい動きをするので、彼とは別の意思を持った生き物だと錯覚してしまった。鱗もない、舌もない、目もない、奇妙な蛇だ。それが靖子の髪にからみつこうとするので、私は急いで彼女を引き起こした。
「見せてくれよ、兄貴」
彼はそう言って、駄々っ子のように指を震わせた。私の周囲にあった術のようなものは解けていた。私には彼の指が彼の一部であると認識できた。私は靖子を連れ、家の中へと戻り始めた。
「心配しなくても、気分はいいよ」
彼が大声で言った。負け惜しみにはまったく聞こえなかった。あの外見からは想像もできないほどの声の艶が、彼の快調さを証明している。
「井の中の蛙。されど空の青さを知る、だぜ」
彼はそう言って笑った。正確には空の広さを知るだった気がする。
「空は青いぜ兄貴」
格子をゆする音が聞こえた。指が格子にしっかりと絡みついている。今度は蛇ではなく、彼の指は牙に見えた。だが、彼にそこを食い破る意思がないことを私は知っていた。
彼女は私に水ようかんを出してくれた。小豆色で表面が湿っている。駅前で売っているようかんで、町の外から買いにくる人もいる。私は、きちんと、竹楊枝で切って食べた。訳知り顔で、さんざんこのようかんを褒めておきながら鉄のフォークで切った男がいた。私は金属は嫌いだ。血の味がする。
彼女は笑顔で私の表情をうかがう。私も笑顔を返した。私はようかんを食べながら、庭の穴を見た。私もあの穴がどうして穿たれたのか知らない。
祖父からこの家を受けついたが、誰が何の目的であの穴を掘ったのかは教えてもらっていない。外から閂をかけられるようになっている。それは脆弱なもので、大人の力で攻め続ければ、十分程度で崩壊するだろう。
何かを入れておく倉庫なのだと思うのだが、祖父が倉庫として使っているところを私は一度も見たことはない。
彼女は笑顔を浮かべながら、穴を眺めていた。私は彼女が何を考えているのかわからない。彼女は容易に感情を見せない。だから、好きだった。私は簡単に泣く人間、感情を見せる人間には近づかない。そういった人間は、異常なまでに感情的か、感情が無いかのどちからかだ
あの男も同様に何を考えているのかわからない。彼女は過剰なまでに無口で、あの男は逆に饒舌だ。彼女は言葉が常に少なすぎ、あの男は多すぎる。二人とも何かを表現するのに、適切な言葉の量を用いたことは一度もなかった。だから、何かを考えているのか、私には窺い知ることは出来なかった。
空が陰り、空気が冷たくなり、雨が降り始めた。彼を穴に閉じ込めてから初めて降った雨だった。やがて雨は激しさを増した。穴にも大量の水が溜まることだろう。
遠雷が聞こえ、靖子は私の背中を軽く押した。振り返ると笑顔を浮かべて庭の穴を指している。彼の事を心配しているならば、もっと深刻そうな顔をするだろう。
雨は土の匂いを湧き立たせた。穴には何の変化もない。私は彼がさすがに格子を破ると思ったのだが、一向にその気配はなかった。靖子に促された事もあり、私は傘もささずに庭に下りた。サンダルには水が溜まっていて、足の裏に生ぬるい感触があった。部屋の中にいる時よりも、土の匂いが強烈だった。もし彼が笑っていたとしても、雨音でかき消されてしまうだろう。雨粒が皮膚に食い込むような強烈な雨だった。
私は穴を覗き込んだ。雨はすでに彼の腰まで溜まっている。
「何やってんだ」
私は彼に言った。
「何やってるって?」
「溺れ死ぬだろうが」
雨音に負けないように強く言うと、彼は笑った。笑い声は聞こえない。泥と一体となった弛緩した表情と、大きく開けた口が見えた。口の中に溜まった泥水が見えた。その小さな水たまりは雨を受け、小さい波紋が生まれては消えている。私には彼がもはや人間には見えなかった。泥水を吐き出し、彼は喋りはじめた。
「じゃあ、出してくれよ」
「俺は、出す気はない」
可愛がってやっていたつもりだった。それが、何を血迷ったか、彼は靖子に手を出した。無理やりではない。合意の上である。だが私を裏切った事は確かだ。だから穴に閉じ込めた。穴に落とす時、包丁で脅したが、そんなものを持ち出す必要がないほど、彼は私に素直に従った。穴に入る前、なんで姉さんは閉じ込めないのか、という不満だけは呟いた。
「出してくれなきゃ、溺れ死ぬな」
「こんなところで、死ぬ必要はない」
「だって、兄貴が出してくれないんだもん」
「自分で出れるだろう」
意地なのか、と私は考えた。突っ張っているつもりなのだろうか。私がやりすぎだと、自分で認めるまでこの穴から出ないつもりなのかと私は考えた。
「命を粗末にするな」
「命かあ」
「そう命だ」
「命は大事だよなあ」
彼はそう言って、身を屈めた。水位は胸のあたりまで来ていたので、顔の半分が隠れた。ふざけたのだろうが、誤って水を飲んだらしく、咳き込んで白目を向く。
「馬鹿野郎」
私はあわてて閂に手をかけたが、すぐに引っ込めた。彼が笑顔を浮かべたので、死んだふりである事を理解した。
「ひっかからなかったか」
彼が嬉しそうに顔を出す。よくもこんな泥水につかり喜々としていられるな、と感心した。雨は始まった時と同様に、ぴたりと止んだ。雨雲が割れ、太陽が顔を出す。空からの陽光が湿った庭に注がれた。私も彼も言葉を止め、空を見上げた。濡れた土から蒸発した水分が立ち昇り、私は噎せ返った。
穴の中の彼にとっては、先ほどの雨は恵みの雨だったと、私は疲労に満ちた彼の表情を見て思った。直射日光は確実に彼の体力を奪っていく。
「兄貴、聞いてくれよ」
「なんだ」
「兄貴、姉貴から誘ってきたんだよ」
「そいつは新事実だな」
「前も言ったって」
「そうだっけ?」
「姉貴に聞いてみたかい? きっと、反応でわかるぜ」
彼はそう言うと、気持ちよさそうに眠り始めた。もしかしたら気絶だったのかもしれない。私は格子を開け、彼を一発殴った。懲罰だったのか、気つけのためだったのか、自分でもわからない。
「今出さないと、もう目覚めないかもしれないよ」
彼はそう言って笑った。
夜になった。夕飯に胡瓜の漬物とまぐろの刺身が出た。風鈴が鳴り、私はビール瓶を開け、一気に飲んだ。ようやく夏らしい良い気分になった。
「鳴かないね」
靖子が呟いた。
「気にするなよ」
私はわさび醤油で刺身を食べた。こってりとしていたが、冷え切った身が、うだるような暑さを私から忘れさせた。靖子は団扇を持ったまま、庭先を見ていた。柄が太い房州団扇と呼ばれる団扇だ。それを見ていると、靖子の故郷である千葉県外房の海を思い出す。今年の夏もまた行きたいと、私は思った。
「心配なのか?」
私はビールを胃に流し込みながら、彼女の反応を伺った。彼女の表情は、いつも通りのものだ。感情が籠っておらず掴みどころがまるでない。
「やつを、愛していないのか?」
私がそう言うと、彼女は団扇を動かす手を止めた。そして私を見て。質問の意味が分からない、と言うように首を傾げた。
夏蛙が鳴いていた。私は台所に行って包丁を一つ抜いた。
私は庭に出て、穴まで来ると、彼の様子を確認した。微かだが、まだ息をしている。彼は顔を上げ、私を仰ぎ見た。彼から苦痛が一切感じられなかった。
「殺しに、来たのかい?」
包丁が月明かりを浴びて輝いていた。私は一呼吸入れ、包丁を昼間の熱が残る地面に置いた。自分を殺しに来たかどうか、彼は私に聞いた。彼が恐怖ではなく、高揚すら感じている事に私は動揺した。私は格子を開けると、彼を穴から引きずり出した。汗や垢や尿や糞便の匂いも一緒に解放された。彼はよろけていたが、何とか歩けるだけの体力はあるようだ。私は彼から目をそらし、空を見上げた。私たちを取り囲むように星が広がっていた。空気が澄んでいて、星の一粒一粒がくっきりと見えた。
「俺を、どうするんだい、兄貴?」
彼が月明かりを浴びている包丁を見ている。私は包丁に気づかないふりをした。
「行けよ」
私の言葉に彼は反応しなかった。試されている気がした。私は辛抱強く、彼の言葉が彼の内側から漏れるのを待った。その間、夏蛙の鳴き声を鼓膜が麻痺するほど聴いた。
「もう、この家にはいさせてくれないのかい?」
「ふざけるな」
私は彼の図々しい提案に苦笑しながらも、彼らしさは三日間の監禁生活で少しも損なわれてないないのだと、感心した。
「駄目に決まってるだろ」
心も身体も強い。私はこうありたかった。認めたくないが、私は今の彼のようになりたかった。今の生活、自分に満足しているというのは、恐らく私が私についた嘘だ。
「何処に行けばいいんだい?」
「知らない。自分で考えな」
私が突き放すと、彼は表面的には残念そうな素振りを見せて、歩き始めた。そして、力を振り絞り、私に向かって手を振る。夏蛙の声に送られて、彼は私と靖子の家から出ていった。
私の腹の虫は収まらなかったが、彼を逃がした。つまり、私にとってこれがやらなければならない事だったのだろう。
その事が分かっただけで十分だった。