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山際響:短編集

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山際響の短編まとめです。
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#音楽

鼓膜

鼓膜

 自分の鼓膜を見るのは初めてだった。思いもよらない事だったが、彼は自分の一部に見惚れた。
 自覚症状はないのだが、聴力が落ちていると、定期健診で言われた。彼は事務担当で、職業的には耳に負担はかからない仕事のはずだ。元々、静かなオフィスでひたすらキーボードを打っていたが。最近はすっかりテレワークが定着したので、彼もその波に乗り、オフィスよりもさらに静かな自宅でひたすらキーボードを打っている。いまや耳

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エキゾチカ

エキゾチカ

 それは、天国への梯子ではなかった。
 三月の青空に向かって伸びるクレーンだった。
 吾郎は車を走らせながら空を見上げている。静かだった。距離はあったが、クレーンの軋みがはっきりと聴こえた。自分の耳、もっと言えば鼓膜には自信があった。幼いころから鋭かったし、音は何でも記憶出来た。ある時、病院で自分の鼓膜を見た事がある。ライトを浴び、モニターに映し出された鼓膜は、白と灰色の中間の柔らかい色をしていて

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クライベイビー

クライベイビー

 煙草を止めた意味がないな、と鉄也は思う。
 ポスターを張っては剥がしたことによってボコボコになった壁を手でつたいながら、鉄也は階段を降りる。まるで爬虫類の鱗に触れているようだった。地の底からはニコチンを含んだ煙が湧き出してくるので、息を止めない限り、肺の中にも遠慮なく入ってくる。今日はここで演奏しなければならないので、肺を清浄に保つなど無理な話だ。階段を降りながら客の顔を想像する。今時、ブルース

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