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山際響
2023年2月20日 12:41
「イルカなど、消さない」と彼は静かに、断言した。 ベッド脇の電気スタンドのような駅前のパブで、彼はベルギービールを飲んでいる。ピンク色の象が描かれているデリリウムという名の奇妙なビールの瓶だった。 彼はもう一度言った。「イルカなど、消さない」 彼は満足げに、ビール瓶を傾け、ゆっくりと、ビール瓶の象ではなく、その不思議な文字をなぞる。「デリリウム、というのは、せん妄状態の事だよ」 彼は言
2020年9月9日 20:00
雨が来る、と言語学者は空を見上げ、思った。 前方にはじっとりとした熱帯雨林に覆われた島、雨島が見える。緑の中からは高層ビルのような、雲まで届く大きな樹が突き出している。樹の幹には人工的な正方形の穴がいくつも空いていて、人が住む事も出来そうだった。 帽子のような灰色の雨雲に、島はすっぽりと覆われていて、樹の上方は雲に隠れて掠れて見える。 彼女が想像した南の島とは程遠く、陰鬱でじめじめとした印
2020年1月25日 08:29
それは、天国への梯子ではなかった。 三月の青空に向かって伸びるクレーンだった。 吾郎は車を走らせながら空を見上げている。静かだった。距離はあったが、クレーンの軋みがはっきりと聴こえた。自分の耳、もっと言えば鼓膜には自信があった。幼いころから鋭かったし、音は何でも記憶出来た。ある時、病院で自分の鼓膜を見た事がある。ライトを浴び、モニターに映し出された鼓膜は、白と灰色の中間の柔らかい色をしていて
2019年3月25日 22:29
その日は朝から雪が降っていました。 十歳だった私は、マンションの窓から見える雪景色を見て興奮していました。 普段は私を憂鬱な気分にさせる高層ビルが、真っ白に染められ、輝いているところを見るのは気分がよかったです。そして同時に、相も変わらず冷め切った母の態度に失望した事もよく覚えています。雪が降っている、と私が声を弾ませても、外を見もせず、そうなの、とだけ呟きました。 私は母に、母らしい事