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山際響
2020年7月29日 20:32
あの夏、私は一人の男を穴に閉じ込めた。 私も他の多くの人々と同様に、私の心を深く傷つけるものは、残念ながら死んでも仕方がないと思っている人間だった。 あの日、私は自分の家へと続く畦道を歩いていた。私の両脇から水田に潜む夏蛙の鳴き声が聴こえてくる。一体どうして夏蛙の声はこんなにも私を落ち着かせてくれるのだろう。蛙の鳴き声など、煩いだけだろう、とある友人は言ったが、私はそうは思わない。人の意
2020年7月18日 12:03
恭司は実家の家庭菜園の中に分け入ると、掌に収まる適当な果実を見つけ出し、力を入れて握りつぶした。極小の種を含んだ果肉が液体となって、掌の中から溢れて土の上に落ちた。一体何の野菜の実かは分からないが、妙にひんやりとしていたのが印象に残った。恭司は野菜を握りつぶす事で、気分の悪さを自分自身に対して表現した。 陽に照らされた菜園の土を見ながら、人から言われるように、自分でも感情表現が上手くないと思っ
2020年1月25日 08:29
それは、天国への梯子ではなかった。 三月の青空に向かって伸びるクレーンだった。 吾郎は車を走らせながら空を見上げている。静かだった。距離はあったが、クレーンの軋みがはっきりと聴こえた。自分の耳、もっと言えば鼓膜には自信があった。幼いころから鋭かったし、音は何でも記憶出来た。ある時、病院で自分の鼓膜を見た事がある。ライトを浴び、モニターに映し出された鼓膜は、白と灰色の中間の柔らかい色をしていて